「励ます方」

2022年6月5日(聖霊降臨祭)
ヨハネによる福音書16章4節b~10節

「弁護者」と訳されている言葉は、パラクレートスというギリシア語で、原意は「励ます方」である。この言葉は、パラカレオー「励ます」という動詞の名詞形。「慰め主」と訳されることもあるが、「慰め主」よりも「励ます方」の方がふさわしいと思える。なぜなら、この方が「世を叱るであろう」とも言われているからである。

パラクレートスという言葉の動詞、パラカレオーは、カレオー「呼ぶ」という動詞に、パラ「そばで」という前置詞が付いた言葉である。「そばで呼ぶ」とは、その人の耳元で、心に呼びかけて、励ますという意味である。それゆえに「慰める」という意味にもなるが、「励ます」であれば、勇気づけることであり、義しいことを勇気を持って語るように「励ます方」だと言える。それは、信仰に基づいて生きるときに遭遇する迫害の中で、雄々しく生きていく力をいただくことでもある。

その力は、単なる腕力や権力ではない。揺らぐことなく立っていく力であり、我々を根底から支える力である。それが「励ます方」によって与えられる力だと言える。対抗することの方が力が必要だと我々は考えるであろう。しかし、揺るぎなく立って、義しいことを変えることなく忠実に生きることの方が、力あることである。対抗する力は、単なる腕力、単なる知力、単なる策略、単なる交渉術。それらが何もないとしてもなお、立っていくことができる力。それが、「励ます方」によって与えられる力であろう。そのお方が義しいことを明らかに示してくださるからである。

そのお方が、「世を叱るであろう」と言われているのは、「罪」、「義」、「裁き」についてである。「叱る」という言葉は、「誤りを示す」という意味でもあるが、直接的には「叱る」ということである。「叱る」ということは、間違っているから「叱る」のであり、義しいことへと向かうようにと「叱る」のである。「励ます方」は「叱る方」なのである。「罪」が義しく受け取られていないから、「義」が義しく機能していないから、「裁き」を素直に受け入れていないから、「叱る」。このお方が、我々の耳元で呼ぶ。義しいことを呼ぶ。我々の心が本当は分かっているはずの義しいことに耳を塞いで、目の前の安易な生き方に流されてしまうことが無いようにと、呼ぶ。我々の心を呼ぶ。

「罪」とは、イエスを信じないことだと言われている。つまり、「不信仰」である。「罪」の対義語は通常「善人」や「義人」だと思われる。ところが、ここでイエスは「信仰」だと言う。「罪」とは、悪いことを実行したということではないのだ。神との関係における在り方が間違っていることが「罪」である。義しい神との関係は「信仰」なのである。「罪」はその「信仰」を自分の力だと思い上がることでもあり、悪いことをしないことも自分の良さだと思い上がることでもある。あくまで、神に信頼して生きているか否かが問われるのが、神との関係である。それゆえに、「罪」とは神との関係が義しくない状態、つまり神を信じていないこと、イエスを信じていないことと言われているのである。しかし、あなたがたは幸いである。神を信じ、イエスを受け入れ、従っているからである。それが義しい神との関係だと、「励ます方」はあなたの耳元で呼ぶ。

通常の「罪」の対義語である「義」についても「励ます方」は新たな視点を開く。それは、イエスが父のところへ行くことだと言われている。ここには、当時一般的に考えられていた「義」の概念とは違う次元の言葉が語られている。悪いことをしないで、神の言葉である律法を守っていることが「義」と考えられていた時代にあって、イエスが天の父のところへ行くことが「義」だと言う。これは、人間が何かを為すことが「義」であると考えられていた世界にあって、人間とはまったく関わりないところで、イエスの昇天のみが語られている。イエスの昇天が「義」だと言う。これはどういうことであろうか。

先には、イエスが父のところへ行くことが、「あなたがたのためになる」と言われていた。さらに、弟子たちが、イエスを見なくなることが「義」だとイエスは言う。それが「役に立つ」ことだからだと言う。つまり、「励ます方」が弟子たちのそばに派遣されるために、イエスが天に昇ることが役に立つことである。イエスが天に昇らなければ、「励ます方」が弟子たちのそばに来ることはないからである。ということは、「義」とは人間が義しいことを行うことではなく、「励ます方」を受け入れるために、イエスとの別れの悲しみを引き受けることである。イエスが、このわたしに義しいことを為してくださることを受け入れること。それが「義」なのである。我々人間が徹底的に神とイエスに信頼して委ねること。それが「義」、義しい在り方である。

そのような「罪」と「義」の義しい認識に至った弟子たちが、揺るがされることなく立つことができるように、彼らを迫害する「この世の支配者」が裁かれてしまっていると、イエスは言う。弟子たちを迫害する者たちは、「この世の支配者」であり、この世を自分の思うように操ろうとしている存在である。神に信頼して、委ねることはない。それゆえに、彼らは神に敵対している。敵対しているがゆえに、神によって裁かれてしまっているのだが、それが現在完了の「裁き」であるならば、終末における「裁き」とは違うのであろうか。弟子たちは裁かれることはないのであろうか。終わりの日に、神の御前で自らの罪を断罪されることはないだろうか。そうである。彼ら弟子たちには、「励ます方」がそばにいて、義しく信仰に立つように支えてくださるからである。それゆえに、弟子たちは「裁き」を越えて生きている。終末を越えて生きている。永遠のいのちを生きている。そのようなところで生きているならば、「裁き」は義しい「裁き」として受け入れられている。弟子たちが、自らが神に背いて生きていたことを認め、神を信じ従うことを求めるように導かれたからである。それゆえに、彼らはたとえ罪深くとも、間違いを犯すことがあろうとも、裁かれることはない。すでに裁かれてしまっていることを受け入れているからである。そうであれば、弟子たちは裁きを越えて生きている。復活の生を生きている。イエスと共に生きている。「罪」と「義」と「裁き」を義しく生きるために、イエスは「励ます方」を送ってくださる。弟子たちを愛するがゆえに、送ってくださる。

しかし、送ってくださったイエスの心を受け取ることなく、拒否する者は、「励ます方」を受け入れることができない。ここでイエスが語る「罪」、「義」、「裁き」は、我々人間が行うことに基づいてはいない。むしろ、神の側の働きが語られている。我々人間が「罪」から離れるのではない。我々人間が「義」を実行するのではない。我々人間が「裁き」を回避するのでもない。すべては、神が為し給うことであり、神が義しいことを為し給うと信頼することだと言える。我々人間が、何も為し得ないとしても、なお「罪」と「義」と「裁き」を神が為し給い、義しい世界を来たらせ給う。この信頼のうちに生きる者は、幸いである。

使徒言行録で語られる聖霊降臨の出来事において、重要なことはこれである。聖霊が降った存在が語る言語がさまざまであることが重要なのではない。異なる言語によって、一つのことが語られていることが重要なのである。この世が叱責され、義しい生き方が何であるかが語られること。これが聖霊降臨の出来事が指し示している重要な事柄なのである。それは「悔い改め」という事柄である。悔い改めメタノイアとは、心の向きを変えることである。間違った方向で考えていた存在が、神の方を向いて考えるようにされることである。人間のことだけを考えていた存在が、神が主体である世界を認め、生きるようにされること。それがメタノイア悔い改めである。そのために、神が働いてくださる。

イエスがご自身の体と血を与えてくださるのもそのためである。イエスと一つとされた魂として、我々が神に従って生きるために与えられる聖餐に与り、揺るがされないで生きていこう。あなたの耳元で呼ぶ「励ます方」に支えられて。

祈ります。

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