「与えられる喜び」

2022年6月19日(聖霊降臨後第2主日)
ルカによる福音書7章11節~17節

「ナインと呼ばれる町へ、歩いて行った」と述べられている。「ナイン」という町の名は、「喜びに満たされている」という意味である。ところが、その町から悲しみが出て来た。一人のやもめの独り息子が死んだのだ。葬儀の葬列が町を出るところに出会ったイエスは、やもめの悲しみをはらわたで感じ、「泣いてはならない」とおっしゃった。喜びに満たされている町が、悲しみの町となってはならないとイエスは、若者を起こした。イエスがはらわたに感じたやもめの悲しみは、神が感じた悲しみ、神が聞いたやもめの叫び。その叫びに呼応するように、イエスは葬列に出会った。神が出会わせてくださったことをイエスは感じ取り、やもめの息子を起こした。そして、こう述べられている。「彼(イエス)は与えた、彼(息子)を、彼の母に」と。新共同訳は「返した」と訳しているが、原文は「与えた」だけである。「与えた」ということは、新しく「与えた」ということである。元に戻したのではない。新しい息子を与えたかのような表現である。起こされた息子は、「語ることを始めた」とも言われている。

「語る」という事柄が始まったということは、まるで幼子が話し始めたかのようである。「語る」ことによって、人間は自己を外に現す。幼稚園、キンダーガルテンを創設したフレーベルが言うように、「内界を表現して、外界と為し。外界を摂取して、内界と為す」ということにおいて、我々人間は一己の人間として生きることになる。内なるものを外に現すことで、外なる世界に新しいものが加わり、新しい世界となる。新しい世界となった外界を、自らのうちに取り入れて、新たな内なる世界を作る。さらに、内なる世界から外界に発して、外なる世界はさらに新たになる。これが、人間の言語活動や表現活動であるとフレーベルは述べている。フレーベルは、この出来事を「統一から統一へ」と表現した。

幼子は、外界を認識するまでは、すべてが自分だけの世界、統一の世界である。外界を認識することで、内なるものを発することになり、発した結果が外界に現れることを認識する。外界の反応を自らのうちに受け入れて、それまでの内なる統一を解体し、再統一する作業が行われる。再統一された内なるものが、再び外界に発出される。外界もまた、解体されながら、統一を形作る。この繰り返しが、我々人間の表現活動、言語活動によって、行われているとフレーベルは見たのである。従って、ここで起こされた若者が「語ることを始めた」と表現されている事柄は、彼が新たな統一へと向かって、創造されたことを意味しているであろう。それゆえに、イエスは「彼を彼の母に与えた」と言われているのである。

起こされた若者は、短時間のうちに、自らの成長過程を成長したということである。その年齢に相応しいように成長した若者が、新たに母に与えられた。イエスは、ここで、新しい家族を創造したのである。それはまた、後の教会を表しているかのようである。イエスが母に「泣いてはならない」とおっしゃった意味もここにある。それは、新しい家族が与えられるために、若者の死があったということでもあるからである。

我々は、「泣いてはならない」のである。常に、新たな創造に接しているのだから。神が、死を与えるとしても、それは新しい創造のためである。失われたと思われたものが、新たに与えられる創造のために、死を越える必要がある。解体が必要なのである。「一粒の麦、地に落ちて死なずば、ただ一つにて在らん。もし、死なば、多くの実を結ぶべし」とヨハネ伝12章24節でイエスがおっしゃっている通りである。「泣いてはならない」とイエスがおっしゃったことも、このみことばとつながっているであろう。さらに、ヨハネによる福音書16章21節ではこうもおっしゃっている。「女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。」と。新たないのちのための苦しみがあるとイエスはおっしゃっている。苦しみも悲しみも、新たな創造のための神の時なのである。

それでもなお、我々は泣く。我々は悲しむ。我々は苦しむ。イエスが「泣いてはならない」と言う命令形の言葉は、その嘆き、悲しみを否定するわけではない。命令形は、現在形の「泣いていない」を創造する言葉である。それは指図するというよりも、宣言であり、現在の創造なのである。イエスが「あなたは泣いていない」と言うことによって、その現在が創造される。それは、創世記の始めにおいて、神が「光あれ」とおっしゃった創造の言葉と同じである。「光あれ」は、「光がある」ことを創造する言葉であるが、「光」は「ある」ものだと宣言する言葉でもある。すなわち、「光あれ」と神が内なるものを外に表すことで、「光」は「ある」ことを始めたのである。従って、イエスの言葉「泣いてはならない」も、同じく「泣いていない」やもめを創造する言葉だと言える。その言葉は、イエスのうちに内在する神の現実を外に表した言葉なのである。イエスの創造の業が、イエスの言葉の表出によって行われた。これが今日、我々が見せられている神の現実である。

神は、喜びを与えるために、悲しみも与える。苦しみも与える。喜びが与えられたときには、苦しみは忘れられているであろうとヨハネのイエスがおっしゃるように、産みの苦しみは喜びのうちに包み込まれる。ナインの母も、その悲しみは「与えられる喜び」のうちに包み込まれ、もはや「泣いていない」神の現実を生きることになった。この現実を起こしたのは、イエスの言葉。神の言葉。創造の言葉。母の解体された世界が再び統一されるために、神はイエスとの出会いを与えてくださった。解体があってこそ、再統一も生じる。解体がなければ、再統一も生じない。解体としての悲しみや苦しみも神の創造の一環なのだ。「与えられる喜び」のための必要なときなのである。

十分に悲しみ、十分に苦しんだ人は、神が与えてくださる喜びを、十分に受け取るであろう。悲しみも苦しみも、自分自身がすべてを引き受けなければならない事柄である。わたしが苦しまなければならない。わたしが悲しまなければならない。そうしてこそ、わたしが喜ぶべき存在なのだと立ち上がることができる。不十分な悲しみや苦しみは、他人事の苦しみや悲しみである。責任転嫁された苦しみは喜びには至らない。責任転嫁された悲しみは喜びを生み出さない。まさに、死んでしまった若者だからこそ、新たに創造され、母に与えられる。中途半端な死は、新しい創造には至らない。町から運び出されなければ、新しい創造には至らない。それは、フレーベルが言うような、内界が外界に表されることと同じである。町の内なる世界が町の外なる世界に運び出されることによって、イエスに出会い、イエスが新しい創造を行う。

我々は、神に向かって、内なるものを表すべきである。悲しみを神に伝えるべきである。苦しみを神に聞いてもらうべきである。「わたしはこんなに苦しんでいます。どうか、新しいあなたの現実を起こしてください」と祈るべきである。もちろん、この母は口に出して祈りはしなかったであろう。その涙のうちに、彼女の祈りは神に献げられていた。その悲しみの姿のうちに、神は彼女の悲しみの叫びを聞いておられた。それゆえに、神はイエスと彼女を出会わせたのだ。

我々一人ひとりもそうではなかったか。自らの苦悩のうちに、神に出会い、神によって新たに創造された。洗礼を通して、死んで、起こされた。イエスが十字架の死を通して、復活なさったように、我々も起こされた。イエスの体と血を与えてくださる神は、イエスの死と一つにされた我々の始まりを想い起こさせてくださる。我々も死んだのだ。一度死んだ者として、起こされた存在であることを想い起こそう。「あなたがたに与えられるわたしの体」とのみことばと共に与えられるイエス・キリストの体と血に与って、新しい創造の業に与ろう。あなたは、新しい世界を生きるべき者。あなたのいのちも、新たな復活を生きるべく創造された。神の内なるみことばの業があなたの上に、確かに現れますように。

祈ります。

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