「愛を働かせる力」

2022年6月26日(聖霊降臨後第3主日)
ルカによる福音書7章36節~50節

「しかし、イエスを呼んだファリサイ人は、見て、自分の中で言った。このように」と述べられている。ファリサイ人が自分の中で語った内容は、女性が行った行為そのものではなく、彼女が世間的にどう思われているかということと、イエスも世間からどう思われるかを考えているだけである。ファリサイ人の判断基準は、世間体である。それに対して、イエスは女性の行為の事実を語り、その行為が如何なるものであるかを述べている。「彼女の多くの罪たちは赦されてしまっている。なぜなら、彼女は多く愛したから」と。イエスが見ておられるのは、女性の行為の根源。彼女が、なにゆえに、このような行為を行ったのかを見ている。一方、ファリサイ人は、彼女の行為は見ずに、彼女の過去の罪に従って、社会からどう見られているかを考えている。ファリサイ人は、現実の彼女を見てはいない。目の前の彼女を見てはいない。あくまで、社会がどう判断するかだけが、ファリサイ人の唯一の関心事なのである。

このような視点に立つ限り、女性はいつまで経っても、罪人のままである。女性が何を行おうと、罪深い女なのだからと批判されるだけ。この女性を貶めておくことだけが、ファリサイ人の自己を守る手段である。一方で、そのように見られていることを承知で、女性はイエスに香油を塗る。社会がどう見ていようと構わない。ただ、目の前にいるイエスにのみ関心がある。イエスにお仕えしたいと、イエスの足を涙で濡らし、長い髪で拭い、香油を塗る。

「あなたはわたしに足のための水も与えなかった」とイエスはファリサイ人に言う。他者を評価し、判断し、貶めるファリサイ人。他者がどう思っていようとも構わず、イエスのために自分の高価な香油を献げる女性。どちらが、イエスを愛していることか。どちらが、まっすぐに生きていることか。どちらが、真実に自分を見つめていることか。

イエスは「彼女の多くの罪たちは赦されてしまっている」と言うが、彼女は罪を認めているということである。自らの罪を認めるがゆえに、罪が赦されてしまっていることを受け取ることができる。多く赦されてしまっているがゆえに、多く愛する。罪を認めていない者は、赦されていることを受け取ってはいない。ファリサイ人は、自らが義しいと思っているがゆえに、罪を認めず、赦しも受け取っていない。それゆえに、イエスを愛することもない。

イエスが「多く愛したから、彼女の多くの罪たちは赦されてしまっている」と言うことは、多く愛する人は赦されるということのように思える。ところが、これは逆なのである。女性が多く愛したことによって、彼女の多くの罪たちが赦されてしまっていることが分かるのだと、イエスはおっしゃっているのである。多くの愛は、赦しを受け取っていることの現れである。つまり、彼女に多く愛するということを起こさせているのは、赦しなのである。神が彼女を赦しているがゆえに、彼女は多く愛する者とされている。彼女の多くの愛は、受け取った赦しの現れである。赦しが、愛を働かせる力。愛を動かす力。愛の原動力。神の赦しが、愛の活動力なのである。それゆえに、彼女の受け取っている赦しを、イエスは認め、受け入れたのである。

ファリサイ人は、彼女を受け入れることができず、彼女が受け取っている罪の赦しも認めることができなかった。結局、ファリサイ人は、自分しか見ていない。自分だけが大事なのである。女性の苦しみを知ることなく、女性の悩みに共感することもできず、女性の哀れさに同情することもできない。これが、義しい人間だと自負している者の現実である。罪を認めることができない者の真実。罪の赦しを受け取ることができない者の現実。この現実を受け入れることができないがゆえに、他者を貶めて、胸をなで下ろす。自分よりも下の人間を作ることによって、自分を守ることができると、安心する。このような人間こそ、哀れである。罪深いと言われている女性よりも、哀れであり、罪から抜け出すことができない。しかも、愛を働かせる力をいただくこともできない。哀れさの極みに生きているのがファリサイ人なのである。

イエスは最後に言う。「あなたの信仰があなたを救ってしまっている」と。罪を認め、罪の赦しを受けた女性には、信仰が働いているのだとイエスは言う。しかも、罪を認めているがゆえに、信仰によって救われてしまっていると言う。これが、信仰の神秘である。彼女を救ったのは、罪を犯さないことではなく、罪を犯したことを認める信仰なのである。犯された罪は消えることはない。しかし、犯された罪を認め、自らのうちに働いていた罪の力を認めた者が、神に赦しを祈る。そのとき、その人は罪深ければ罪深いほど、多くの赦しを受けている。義しいと思い込んでいる人間は、赦しなど必要ないと、神に祈ることもないであろう。むしろ、このような罪人ではないことを神さま感謝しますと言うのかもしれない。そのとき、神は喜ぶのであろうか。

イエスは女性に言う。「平和へと歩きなさい」と。イエスが言う「平和へ」という言葉が指し示しているのは、神の平和、シャロームのことである。「シャロームの中へと歩きなさい」とイエスはおっしゃっている。それは、神との和解であり、神がすべてを満たしておられる世界へと入っていきなさいという意味でもある。平安に過ごすとは、神に信頼する世界を生きることなのである。

この女性は、多くの罪の赦しを受け取った。神が彼女の罪を赦し給うたことを受け取った。それゆえに、神が欠けることなく満たしている世界の中で、生きて行くことができる。彼女には、何も不足することなく、たとえ世間が彼女を蔑み、排除したとしても、彼女には神がおられる。神の世界が開かれている。神のシャロームが彼女を包んでいる。彼女には、もはや恐れるものはない。何も、彼女を害することはない。神の守りの内にある彼女には、すべてが善きものである。苦しみがあろうと、悲しみが起ころうと、つらい日々であろうと、彼女には神がおられる。神が彼女を守り給うことだけで十分なのだ。彼女の世界は満たされた世界となっている。ファリサイ人のような人間が取り囲んだとしても、彼女はただ神を見上げる。ファリサイ人の批判の眼差しの中で、イエスというお方への愛に集中したように、神だけを見詰める。神だけが彼女のすべて。神だけが彼女の土台。神だけが彼女を受け入れ給う。その世界こそが、神の善きものに満たされた世界。シャロームの世界。

愛する者が、罪赦された者。罪赦された者が、愛する者。この交換だけが繰り返される世界に、彼女は生きていくであろう。世間が何も理解しないとしても、彼女は生きる力を得ている。社会が自分を排除しようとも、彼女は置かれたところで生きて行く。社会が滅びたとしても、彼女は神のうちに生きている。世界が失われても、神の世界は失われない。彼女の世界は、消えることなき世界。彼女のうちに働き続ける赦しの力が失われることのない世界を彼女に与えている。赦しの力が、彼女を愛のうちに包む。彼女のうちに、愛が働く。神と彼女は一つとなっていく。神の愛が、彼女を動かす力となる。

我々キリスト者は、彼女のように、ただ独り神に向かう。ただ独り神と共に生きる。ただ独り神の力を受ける。赦しを受ける存在は、自らの罪を認める存在である。一人ひとりが赦しを受ける。誰かの代わりに受けることはできない。誰かがわたしの代わりになることもできない。ただ一人、神の前に立つ者だけが、罪の赦しを受け取る。我々は、そのように救われた。我々は、そのように導かれた。我々は、そのように赦された。罪の赦しを受け取るのは独り。愛するのも独り。独りのわたしが罪赦され、愛する者とされる。神は、そのような一人ひとりを起こしたいと、語り続けておられる。イエスの十字架において、語り続けておられる。

あなたは罪赦された罪人。あなたは義人にして罪人。あなたは罪の赦しに促されて、愛する者に変えられている。社会も世間もあなたを義しく見てはいない。ただ神だけがあなたを義しく見ておられる。あなたをまっすぐに見てくださるイエスに向かって、まっすぐに歩いて行こう。

祈ります。

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