「必然に従う」

2022年7月3日(聖霊降臨後第4主日)
ルカによる福音書9章18節~26節

「人の子は、多くの苦しみを受けることになっている。そして、長老、祭司長、律法学者たちから捨てられ、殺されることになっている。そして、三日目に起こされる。」とイエスは言う。ここに使われている動詞は、すべて受動態である。人の子の受難は、文字通り苦難を受けることであり、被った苦難を引き受けることである。捨てられ、殺され、起こされるという受難の三つの内容は、この後の弟子たちに命じるイエスの三つの言葉に対応している。「自分を否定する」、「自分の十字架を取る」、「イエスに従う」という三つである。こちらは能動。被るのではなく、自らが動くことである。しかし、誰も自ら動くことのない事柄が語られている。「自己否定」、「十字架を取る」、「イエスに従う」という三つは、イエスが三つの受難を引き受けてくださったことにその力を持っている。イエスが「捨てられ」たがゆえに、キリスト者は「自分を否定する」。イエスが「殺された」がゆえに、キリスト者は「自分の十字架を日々取る」。イエスが「起こされた」がゆえに、キリスト者は「イエスに従う」。イエスの上に降りかかった苦難が、キリスト者の生き方の根拠になっている。我々キリスト者は、イエスの受難を自らの人生の中で経験するということである。これが、キリスト者の必然だとイエスは言うのである。

イエスご自身が捨てられ、殺され、起こされることすべては、神の必然を表すデイというギリシア語でまとめられている。イエスは、神の意志によって、捨てられることを引き受けた。神の意志によって、殺されることを引き受けた。神の意志によって、起こされることを受け入れた。これらは、すべて「神の必然」であり、イエスはご自身が神の必然に従うことを弟子たちに伝えた。それが、イエスご自身の生きる方向であり、弟子たちキリスト者の生きる方向である。ここから抜け出す者は、自分を否定してはいない。自分の負うべき十字架を負ってはいない。自分が従わせられる神の必然に従っていない。この必然に従う生き方は、イエスのものであり、イエスのいのちがあなたがたのうちに生きて働いているがゆえに、イエスと同じように生きるとイエスは弟子たちに語った。この必然を受け入れない者は、キリスト者とはなり得ないということであろうか。いや、たとえ、引き受けないとしても、いずれ引き受けざるを得ないところに導かれる。そのときが最後の審判である。神に従うのか、人間である自分に従うのかを分ける裁きが行われるとき、我々は自分を捨てるしかない。自分が負うべき十字架を取るしかない。自分が従わせられることを引き受けるしかない。そのとき、神を捨てるならば、神に造られたいのちを捨てることになるだけである。それは、必然に従うのではなく、自分に従うこと。自分を捨てることなく、自分を守るだけの者は、イエスに従うことはできない。自分を否定し、捨てることが第一の事柄だとイエスは提示している。そこから必然に従う生き方が生まれると。

自分を否定することは人間には難しい。常に自分がいる。しかし、それは本当の自分なのか。自分ではない何かに捕らわれているのではないのか。自分を捨てるということは、自分が無くなることだと我々は思う。しかし、イエスは自分を捨てることで、神の意志がなる出来事を生きた。しかも、イエスとして生きた。ということは、イエスは失われず、イエスご自身が被るものを引き受けるという受動において、能動を生きたということである。

我々人間は、能動を勘違いしている。我々が働かせている能動は、自己の罪の現れである。我々が生き甲斐を感じる能動は、神に生かされていることを否定する。我々が自分を守ることによって、神を否定するとすれば、わたしの自分と神ご自身とが対立していることになる。この二つの次元を一つにするのは、神の意志だけだということを忘れている。相矛盾する人間と神との対立を越えさせるのは、神ご自身である。我々人間からは生まれない。我々人間から生まれるものは、対立と分裂のみ。一致しているように思えて、考え方に違いが生まれるとき、すぐに分裂してしまう。他者を排除する思考に陥ってしまう。そこにおいて、我々のうちに働く罪が分裂を誘導している。そうすることが、悪の意志であり、悪は我々をばらばらにすることで、神の支配を覆すことができる。神に従っていると思っている者の中にも、悪が入り込み、分裂を作り出す。長老も祭司長も律法学者も、神に従っていると思っている。イエスも神に従っている。同じ神に従うことなのに、分裂している。これが我々キリスト者のうちにも働いている悪の導きである。

我々がそこから抜け出すためには、自分を否定すること、自分を捨てることしかないとイエスは言うのである。その始まりとして、イエスご自身が自分を捨てる。人間たちから捨てられることを引き受けることによって、自分を捨てるイエス。受動を能動的に生きるイエス。このお方が我々の主である。

自分を捨てることで、イエスのように殺されることになるとすれば、誰も捨てようとは思わない。ところが、弟子たちは捨てた。イエスの復活後、弟子たちは自分を否定して、日々自分の十字架を取った。それがキリスト者の歩みであると引き受けた。それゆえに、如何なる迫害にも屈することなく、自らの救い主の許に留まった。自分を捨てることによって、救いに留まることができる。救いは、向こうから、神からやって来るからである。わたしの外からやってくる救い。それが真実に救いである。

わたしのうちから始まる救いは、救いではない。救われ難いこのわたしが救われるという受動を生きてこそ、神によって救われる。自分の力で敵を打ち負かすことは救いではない。たとえ、打ち負かされたとしても、神が救い給う。神があなたの神であるということは、あなたを支配し、あなたを守り、あなたを救うのは神のみだ、ということである。

この信仰に生きるためには、自分を捨てるしかないということは分かっている。それでもなお、我々のうちには悪が働き、自分を捨ててどうすると呼びかける。お前は、大事な存在なのだと呼びかける。お前は必要な存在なのだと呼びかける。自分を捨てれば、お前は何者でもなくなるのだと呼びかける。こうして、我々は自分を見失う。神に造られ、神に守られている自分を見失う。何者でもない自分であることこそ、神の被造物なのである。地位もなく、財産もなく、寄る辺ない存在であることこそが、神があなたを造ったという信仰のうちに生かしてくれる。

イエスが弟子たちに問う言葉もそこから理解される。「あなたがたはわたしを誰だと言うのか」とイエスは弟子たちに聞いた。他の人々が言うのは、地上的人間。エリヤもヨハネも預言者も、ただの人間である。人々が考えているのは、エリヤたちの人間的位置である。エリヤのように力強く、ヨハネのように尊敬され、神の言葉を伝える預言者のようである人間として、イエスを理解しようとする。そのような地上的存在に留めることで、自分たちが把握可能な存在となるからである。しかし、ペトロは「神のキリスト」と告白した。この告白は、地上的な告白ではない。神がペトロの口においた告白である。ペトロは自らの地上的思考を捨てて、告白している。それこそが真実に信仰告白なのだと言える。しかし、イエスはその告白を「誰にも言うな」と戒める。イエスご自身が、何者でもないというところに立つことを示す言葉である。何者でもない者こそ、神の必然を生きることになると、イエスは教えてくださっている。何者でもないことを受け入れることこそが、我々が神のものとして生きることなのである。

そのために、イエスはご自身の体と血を我々に与えてくださる。何者でもないイエスと同じく、神のものとして生きるために、イエスの体と血をいただく。聖餐を通して、我々はイエスと同じところに導かれる。イエスと一体とされ、何者でもない者として、神の必然を生きる者とされる。神は、必然を起こし給う。神のいのちは、必然の中に生きている。被るすべてのことが神の必然である。あなたを神のものとして生かそうとする神の御業である。まっすぐに、神に顔を向けて、生きて行く者でありますように。祈ります。

 

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