「顔の向くまま」

2022年7月10日(聖霊降臨後第5主日)
ルカによる福音書9章51節~62節

旅をするということは、ブラブラと歩き回ること。旅するときには、あっちに行き、こっちに行きして、そこに存在しているものを見て回る。存在しているものを存在しているままに見て回るもの。自分の家や地域での生活では、目的を持って進んでいるため、目的地にしか興味がない。ところが、旅となれば目に入るさまざまなものに目を留めて、観察するものである。今日の聖書の中では、そんなイエスの姿が示されている。イエスは、自分の顔が向いている方を見ている。自分で顔を向けているのではない。ただ、顔が向くままに歩き回っている。そして、目に入るものを受け入れている。最終的には、エルサレムに顔を向けているのではあっても、それまでの道のりをイエスは楽しむ。イエスは旅人である。

旅人とは、異質な存在であり、異なる文化をもたらすのも旅人である。この旅人として、イエスは異なる村から、異なる村へと渡り歩いている。最終的にエルサレムへと顔を向けているが、それまでの道のりにおいては、自分の顔が向くところに向かって行く。目の前のものを良く観察しながら、旅を楽しむイエスがおられる。それゆえに、ある村で、入ることを拒否されたとしても、別の異なる村へと向かう。それで良いのだとイエスは弟子たちを戒める。拒否されたから、天からの火で焼き殺そうと考える弟子たちを戒める。それは、人間がすべきことではなく、神が下し給う裁きである。イエスは、向きを変えて、異なる村へと行くだけ。

何とか受け入れてもらおうと拒否する村に迎合するわけではない。自分を否定するものを消し去ろうと、拒否する村を否定するわけでもない。拒否する者は拒否する。受け入れる者は受け入れる。目の前の些末な事柄に左右されることなく、イエスは歩き回り、出会う事柄をそのままに受け入れる。これが、イエスがエルサレムへと顔を向けている意味である。エルサレムでは、神の顔が自分に向けられているとイエスはエルサレムに顔を向けている。それだけがイエスが生きるべき方向。そこに行き着くまでに出会うさまざまな人々、村々を見詰めながら、そのままの姿を受け入れている。拒否しようと、受け入れようと、それにこだわるわけではない。ただ、「そのようである」ことを認めるだけ。それが、イエスのエルサレムへの道行きである。

この途上において、イエスに向かって「従います」と言ってくる人に、イエスは向き合う。その人が顔を向けるべき方向を見失わないようにと向き合う。自分が顔を向けるべき方向を見失う人は、自分に示される顔を選択する。最終的に従うと言いながら、今自分が顔を向けたい方向を向こうとする。それが終わったら、イエスに従うと言う。それは、イエスに従うことではない。イエスに従うとは、今従うことだからである。しかも、自分で選択することを放棄することだからである。

顔は向こうからわたしに向かってくる。わたしが顔を向けたい方向だけに顔を向けることは、顔の向くままに生きることではない。神が向けさせることを受け入れている姿ではない。自分が向けたいと思う方向だけを向くことは、神に従うことではない。イエスは、エルサレムに顔を向けているとは言え、それは神がイエスの顔をエルサレムに向けさせているからである。そこに到達するまでの道においても、神が顔を向けさせるものを受け入れて歩き回る。これが、イエスが神に従っている在り方である。

イエスに向かって、「従います」と言いながら、イエスの指示を受け入れず、まず自分のことに顔を向けようとする。このような人は、イエスに従うことはできない。自分のことから抜け出すことはできない。それゆえに、イエスは彼らにこう言う。「鋤の上に手を置いて、後ろのことたちへ眼差しを向ける者は、神の国の相応しい者として存在してはいない。」と。イエスは「後ろのことたち」と複数形で語っている。顔の前に神によって置かれたことたちではなく、通り過ぎてきた後ろのことたちへと眼差しを向けるということは、自分が知っている方向に顔を向けるということである。それゆえに、神がわたしの顔の前に置いてくださったものを見ることなく、受け入れることなく、過去の後ろのことたちへ眼差しを向けてしまう。後ろを向くということは、神が前に置いたものを拒否することである。それゆえに、神に従うことはない。神を拒否し、自分を守る。自分の選択するものを守る。自分が顔を向けたいものを守ろうとするとき、我々は神に従うことはない。まず、自分が大事になっているからである。

神は、まず我々に顔を向けておられる。我々は、わたしに顔を向けてくださるお方の顔を受け入れる。それが、神に従うということである。後ろのことたちへ顔を向けてしまうならば、神の顔を拒否してしまうことになる。神の顔を捨てることになる。後ろのことたちが片付けば、神に向かいますからと言うとすれば、後ろのことたちが第一になっているということである。神は二の次。イエスは、このような人たちに向かって、神の顔に向かって生きるようにと勧めたのである。顔の向くままに生きるとは、神が顔を向けさせてくださるままに生きるということである。自分が顔を向けたいように生きることとは正反対なのである。

我々は、まず自分が計画して、ことを進めたいものである。自分の計画が上手く行くために、まずは過去を整理して、きれいになってから、新しい計画を進めようとする。過去は整理しなくとも良い。捨てれば良いのだから。神が顔を向けてくださる方向へ向かううちに、後ろのことたちは忘れられている。忘れられないがゆえに、前を向くことができない。神の顔を受け入れることができない。我々は、神の顔に向かうだけで良いのだ。神に向かって歩き回るならば、行き着く先は神が定めておられる通りになる。イエスは、そのようにして、異なる村から異なる村へと、歩き回っていたのである、エルサレムを最終の顔としながら。

これが、我々の主イエス・キリストが歩き回っている意味である。そして、歩き回る先に定められている十字架が立っている。さらにその先に、ご復活がある。一つひとつの異なる村は、途上において出会う顔である。その顔に出会うことを繰り返しながら、イエスは最終の顔エルサレムへと向かって、歩き回る。いずれにしても、エルサレムに行き着く。十字架に行き着く。復活に行き着く。そこで、神の顔が迎えている。その顔に向かって、イエスは顔の向くままに歩き続ける。

我々人間は、このイエスのように生きることは困難である。顔を向けるものを自分で選び、うしろのことたちへと顔を向ける。我々は、自分で顔を向ける。自分に向けられている顔を受け入れることなく、自分が向けさせられている方向を受け入れることなく、自分が向きたい方向だけを向く。こうして、我々の人生は、自分で上手くやっていける人生になると思えてくる。ところが、そうではない。あなたの人生は、あなたに顔を向けておられる神の顔を求めてこそ、神の懐に行き着くのだ。神の顔を拒否するならば、あなたは自分の懐にすべてを抱こうとしていることになる。そのような愚かな罪人である自分自身こそが、神に抱かれなければならない存在なのに。

我々の人生は、神が顔を向けてくださる人生である。こちらを向きなさいと呼んでくださる人生である。あなたをいつも見ていると言ってくださる人生である。神が見ておられるあなたが、後ろばかりを気にしているならば、神の眼差しはあなたを捉えることはない。あなたは失われたままに人生を終わることになる。その果てに、何が残されているのだろうか。自分が抱えていたものが残り、朽ち果てるだけ。そのようなことのために、神はあなたを造ったのではない。神が顔を向けておられるあなたは、神のものとして生きるべきあなたなのだ。使徒パウロが言うように、このお方と顔と顔を合わせてまみえるために、召されたわたしを生きて行こう。顔の向くままに、目の前のものを受け入れながら、神の顔に向かって生きて行こう。あなたの前に置かれているものすべては、神が置き給うた、神の顔、神の懐への扉なのだから。

祈ります。

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