「隣人の創造」

2022年7月17日(聖霊降臨後第6主日)
ルカによる福音書10章25節~37節

「また、誰が存在しているのか、わたしの隣人として」と律法学者はイエスに問う。しかし、イエスはたとえの最後で、彼に問う。「これら三人のうちの誰が考えているか、あなたにとって、強盗の手に落ちた人の隣人として生じてしまっていることを」と。この言葉は、律法学者にとっての見解を問うているが、彼が考えているかどうかではなく、三人のうちの誰が考えているかを、律法学者に問うている。しかも「存在している」という言葉ではなく、「生じている」という言葉が使われている。このギリシア語はギノマイという言葉で、神の創造の際に用いられる言葉であり、日本語では「なる」と訳される。「光あれ」と言われた神の言葉に従って、「光があった」と訳されている創世記の記述でもこのギノマイが使われている。ということは、三人のうちの誰が、自分は隣人として創造されたのだと考えているのかをイエスは問うていることになる。もちろん、三人の中で、強盗の手に落ちた人に憐れみを行った人が、隣人として生じたと考えている人だと、律法学者は答えている。つまり、サマリア人は、自らが隣人として生じたと考えていることになる。それは、彼が自分のお腹で「憐れみ」を感じたからである。感じた憐れみを行ったということは、彼が倒れている人の隣人として神によって創造されたということだとイエスは語っていることになる。隣人となるということは、隣人として神によって創造されることだと言える。「憐れみ」を感じ、行うということは、そのときに感じたことを実行することであるが、その実行は創造されたがゆえに可能とされるのである。それゆえに、何の見返りも求めず、ただ与えることを可能とされたのである。神の働きによって。

他の二人はどうして「憐れみ」を感じなかったのだろうか。強盗に襲われるなどということは、神の守りがないからであると、レビ人も祭司も考えたのではないだろうか。また、彼らが死にかけている人間に触れるならば、汚れるということも考えられる。しかし、そのように考える彼らが、エルサレムから下っているということは、レビ人や祭司の仕事の後だということである。彼らが、仕事の前に汚れてはならないと考えることは肯ける。しかし、仕事が終わって、エルサレムから自宅へと戻る際に、死にかけているかも知れない人を助けて、汚れたとしても仕事には支障はない。それなのに、彼らは向こう側を通って、死にかけている人に触れるのを避けている。だとすれば、彼らはそのような不幸に出会った人は、神に裁かれていると考えたのであろう。神が裁いていることを妨げてはならないと考えたのであろうか。

また、彼らは自分が誰かに排除された経験がないのでもあろう。それゆえに、盗賊の手に落ちてしまった人の苦しみを感じることはなかった。経験がないがゆえに、共感はない。サマリア人は、ユダヤ人たちから汚れていると考えられ、除け者にされていた。それゆえに、彼は自分のお腹が痛くなるほど、倒れている人の苦しみを感じた。同じ痛みを感じた。それは、神が彼をその人の隣人として創造したことではなかったか。倒れている人の痛み、悲しみ、苦しみを感じる人は、このサマリア人しかいなかった。それは、神がこのサマリア人を倒れている人のそばに送ってくださった出来事だった。サマリア人は、神によって創造され、送られた隣人だった。また、サマリア人にとっては、倒れている人は神が結び合わせてくださった存在でもあった。

この世には、さまざまな立場の人間が存在している。それぞれの立場がある。それぞれの境遇がある。それぞれの苦しみがあり、それぞれの悲しみがあり、それぞれの痛みがある。もちろん、それぞれの喜びもある。幸いもある。善人がいて、悪人がいる。義しい人も義しくない人もいる。その中で、出会ったときに何かを感じる人がいる。結ばれていることを感じる人がいる。そのような相手を、我々自身が選ぶことはできない。わたしの前に現れる人がどのような人であろうと、結ばれていることを感じる人と感じない人がいる。その人は、わたしのために神によって置かれた人かも知れない、わたしが隣人として創造されるために。

その人の経験が、わたしの経験と同じ経験であるかは問題ではない。同じ経験ではなくとも、倒れている人と同じような苦しみを感じ取ることができる。そのような人は、わたしと本質的なところで結ばれていると言えるのではないか。神が結び合わせた人だと言えるのではないか。そうであれば、このたとえの最後で、イエスが言う言葉はどう考えれば良いのだろうか。「あなたもまた、旅をしなさい。そして、行いなさい、同じように」とイエスは言っている。イエスの言葉は、誰でも行うことができると言っているように聞こえる。三人のうちの一人だけが行うように創造されたのであれば、「あなたもまた、旅をして、行いなさい」とは言えないのではないかと思える。

「旅をする」という言葉が示しているのは、目的地に至るまでの道のりにおいて、さまざまなものに目を留めて歩くことである。道中の景色、出会うもの、出会う人を神が出会わせてくださった存在として受け入れながら、歩き回ることである。そのような旅をする人こそが、隣人として創造される人だとも言える。なぜなら、サマリア人は「旅をしている」と言われているからである。この言葉は「道」という言葉から作られた動詞で、「道を行く」というのが原意である。途上にあることを生きること、また寄るべない存在として生きることが「旅する」ことである。

旅の途中で出会った倒れている人を介抱して、その人の旅が継続されるように助けることは、旅人のなすべきことであった。レビ人も祭司も旅をしていたわけではない。彼らは家路を急いでいたのである。早く家に着かなければならないと、急ぐ余り、旅をすることができなかった。サマリア人は旅する人であった。イエスは、ご自身の旅する姿を、このサマリア人に映しているのであろう。イエスは、十字架への旅の途上において、出会う病人を癒し、罪人に赦しを与え、一人ひとりを解放していった。サマリア人はイエスご自身であるとルターが言うのも肯ける。旅するイエスは、途上で出会うさまざまな存在を受け入れて行く。一人ひとりの罪を一身に引き受けて、十字架への旅を続ける。イエスこそは、我々一人ひとりの隣人として、神によって創造されたお方である。神によって、我々の傍らに送られたお方である。倒れているわたしを介抱し、傷を癒し、旅を続けるために必要なものは何でも与えてくださる。これが、イエスの十字架から与えられる神の可能とする力である。

イエスは十字架を通して、わたしの隣人として生じてくださる。神によって、わたしのために送られた助け手。わたしに憐れみを行ってくださるお方。このお方は、わたし以上に傷を負い、わたしとは比べものにならないほど痛めつけられたお方。その傷は、わたしの傷を癒すために負われた傷。負ってくださった痛み。サマリア人のように、憐れんでくださったお方が、わたしの主イエス・キリスト。あなたは、癒された存在として、旅を続けることができる。神の国への旅を続けることができる。神の懐への旅を続けるあなたのそばに、いつもイエスは寄り添い、励まし、導いてくださる。

律法学者は、このようなイエスと同じように行うことができるのだろうか。我々は、このイエスと同じことができるのだろうか。我々が、旅する者として生きるとき、出会うものすべてを神の贈り物として生きるとき、寄るべない存在として生きるとき、わたしの同伴者イエスがわたしを創造してくださる。誰かの隣人として創造してくださる。必要な人に、必要な存在として創造してくださる。人間にできることではなくとも、神には何でもできる。イエスの創造の言葉をまっすぐに聞くあなたは、神のものとして創造される。イエスの言葉に従って、パンと葡萄酒をいただく聖餐が、あなたを新たに創造する。同伴者イエスが、あなたのうちに生きてくださる。イエスの言葉に信頼して、まっすぐに生きて行こう。旅空を歩むイエスと共に、旅を楽しみながら。

祈ります。

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