「欠乏の認識」

2022年7月24日(聖霊降臨後第7主日)
ルカによる福音書10章38節~42節

「しかし、マルタという名のある女性が彼を迎え入れた」と言われている。誰かを家に迎え入れるのは家の主人である。マルタは家の主人。女性なのに、客を迎え入れる。それゆえに「しかし」という接続詞が付けられている。女性の迎え入れに対して、何故かイエスも彼女の迎え入れを受け入れている。彼女の家に入ることを選んだのはイエスである。彼女のうちに秘めた欠乏を感じ取ったのであろうか。旅人としてある村にやってきたイエスは、ご自分を迎え入れる存在が何かを求めていることを知ったのであろう。イエスはマルタの招きに応えた。

マルタは家の主人である。恐らく、父母を失った後、妹と弟を抱えて、家全体を取り仕切り、すべてを動かしていたのであろう。ところが、妹のマリアを動かすことができなかった。そこで、イエスに言う。「主よ、あなたには関心がないのですか、わたしの妹がわたしだけが奉仕していることを後に残して去ることに」と。イエスが自分に関心を示してくれないことに腹を立てているかのようである。そして、イエスにマリアが自分を助けるように言って欲しいと言う。どうして、自分で言わないだろうか。

マルタは、自分が直接言うよりも、イエスが言う方が効果があると考えているのだろうか。マルタは直接マリアに言えないほどに気を遣っているのであろうか。いや、イエスの足許でイエスの話を聞いているマリアには、マルタがイエスに言った言葉は当然聞こえている。イエスとマリアを同時に非難しているかのようである。マルタが求めているのは、いったい何であろうか。そのマルタの心を知って、イエスは言う。「マルタ、マルタ。あなたは思い悩んでいる。そして、多くのことについてかき乱されている。しかし、一つが存在している、必要なものとして。なぜなら、マリアは善なる部分を選んだからである。それが如何なるものであろうと、彼女から引き離されないであろう」と。マリアは、全体の中で自分にとって必要だと思える一つのことを選んだのだとイエスはおっしゃっている。

マルタは、能力のある女性だったのだろう。だからこそ、多くのことを処理してきた。しかし、マリアはそれができない。日常においても、マリアは一つのことをのんびりと行い、マルタは多くのことを行っていたのかも知れない。しかし、一つしかできなくとも、多くのことができるとしても、我々が行うものは現れているものである。何かが現れるために必要なものがある。これがなければ、何も起こらないというもの、それが必要なものである。

マルタには多くのことが気になっていた、マリアは一つのことが気になっていた。そして、イエスの足許に座って、イエスの言葉を聞いていた。そのようなマリアはマルタの気持ちを理解することができなかった。二人は、全く正反対の性格のようである。マリアは座っている。マルタは立って働いている。マリアは動じることなく、イエスの言葉を聞いている。マルタはあちらにこちらにと動き回る。それぞれに、与えられているものは違っていた。

イエスはマリアを擁護しているように思えるが、決してマルタを否定しているわけではない。マルタのかき乱された心に、イエスは語り掛けている。「マルタ、マルタ」と二度マルタの名を呼ぶイエスは、マルタを慈しんでいる。「一つとして存在している、必要なものは」というイエスの言葉も、「あなたがかき乱されている多くのことは、必要なものではない」と言っているわけではない。マルタが無意識に感じている欠乏を満たそうとしておられる言葉である。あなたが自覚していないとしても、欠けているがゆえに、かき乱されるのだと言っているようである。

しかし、マルタは多くのことを行っている。彼女は欠乏を感じてはいない。自分に欠けているものがあるとは感じていない。むしろ、なすべきことをたくさん持っている。一方でマリアは欠乏を感じている。彼女がイエスの足許から動くことができないのは、彼女の欠乏を満たしてくれるものをイエスの言葉に感じているからである。マリアは自らの欠乏を認識しているのである。

「必要」というものは、欠けていることである。欠けているものが必要なものである。一つが欠けているとすれば、それは根源的に欠けているものである。この根源的な欠けをマリアは感じている。それゆえに、イエスの足許から離れることができない。彼女の心の根に欠けが生じているとすれば、心の根にある欠けをイエスの言葉が満たしてくれると、彼女は信じて、イエスの足許に座っているのだ。マリアは、マルタのことを考える余裕もないほどに、欠けを感じている。自分に欠けているものを認識している。それが満たされる必要がある。マリアが立ち上がることができるとすれば、欠けを満たされたときであろう。マルタがどれだけマリアを動かそうとしても、マリアは動くことができない。このマリアが認識している欠けは、マルタには分からない。マリアとマルタの間には、理解不能な壁がある。マルタが立てたわけではない壁。マリアが立てたわけでもない壁。お互いに理解できない壁。これを越えるのは、困難である。越えるとすれば、互いに欠けていることを認識したときであろう。理解できないことを認識したときであろう。その間におられるのがイエスである。

マルタはイエスに向かって語る。マリアはイエスの言葉を黙って聞いている。マルタとマリアの間にはイエスがおられる。イエスは、二人の姉妹に向き合っておられる。向き合うことができない二人のために、イエスが一人ひとりに向き合っておられる。マルタの不満に耳を傾けるイエス。無言のマリアに耳を傾けるイエス。イエスがおられることで、二人の姉妹は救われている。救われるのは、マルタとマリアの二人。イエスによって、一人ひとりが救われる。イエスによって救われた存在として、それぞれが自分を生きるであろう。自分が選んだ「善なる部分」によって、欠けを満たされて、生きるであろう。マルタはイエスによって、欠けを認識し、マリアも欠けを満たされ、互いに救われた者として生きるであろう。

我々はイエスを選んだ。もちろん、イエスがわたしを選んでくださったのではあるが、自分自身としては自らの根源的な欠けを認識して、イエスを選んだ。マリアもイエスを選んだ。マルタもイエスを選んだ。イエスこそが、一つ、必要なもの。この世界に存在している善なる部分であると選んだ。我々に欠けている善なる部分が、イエスである。我々の哀れさ、罪深さ、愚かさに向き合ってくださるお方は、イエスおひとり。我々が自らの欠けを認識するとき、欠けを満たしてくださるのはイエスである。イエスだけが、我々に必要なお方である。我々の根源的な欠乏を満たしてくださるのはイエスのみ。我々の根源的渇望に応えてくださるのはイエスのみ。我々の根源的罪を取り除いてくださるのはイエスのみ。如何なることがあろうとも、このお方に向き合っていただいたわたしは取り去られることなく、神の前に生きることができる。我々が失っているもの、欠けてしまっているもの、それは神への信頼であり、神を神とする信仰である。この信仰が欠けているがゆえに、我々はかき乱される。多くの外面的なことを支配しているように思っても、多くのことに振り回されている。独り静かに神の前に跪くことが、我々に必要なただ一つのことである。すべてを満たしてくださるのは神のみ、イエスのみ。

イエスは、あなたの欠けを知っておられる。あなたの罪を知っておられる。あなたに必要なものを知っておられる。マリアとマルタに向き合ってくださったように、イエスに向かって祈るならば、必ず応えてくださる。あなたは、善なる部分を選んだのだと言ってくださる。イエスを通して、神に祈る一人ひとりが、神によって結ばれる。神がすべてを善なるものとして形作ってくださる。マルタとマリアが一つとされたように、我々もまたイエスという一つの体に結ばれる。欠けを持っているあなたこそ、イエスを迎え入れる存在なのだ。マルタがイエスを迎え入れたように、マリアがイエスの前に跪いたように、欠けを満たしてくださるお方を迎え入れよう。

祈ります。

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