「父を求める祈り」

2022年7月31日(聖霊降臨後第8主日)
ルカによる福音書11章1節~13節

「父は、天から与えるであろう、聖なる霊を、彼を願い求める者たちに」と、イエスは最後におっしゃっている。「主よ、わたしたちが祈ることを教えてください」と願った弟子たちに、イエスは「父を願い求める祈り」を教えた。主の祈りと言われるイエスが教えてくださった祈りについての言葉は、「父よ」という呼びかけに始まり、「父は、天から与えるであろう」と結ばれている。主の祈りは「父を求める祈り」である。イエスは、我々キリスト者が、遠く近寄りがたい神に祈るのではなく、自らの父に願い求めるように祈ることを教えてくださった。主の祈りは、イエスが父なる神に親しく祈ったことと同じく、我々の父となってくださる神を願い求める祈りなのである。

主の祈りの基本を教えた後で、恥を知らぬしつこさによって、夜中にパンを手に入れる話をイエスは語った。恥知らずなしつこさが主の祈りを祈る祈り方だというのであろうか。しつこく祈るならば、父は聞き届けてくださるというのであろうか。もちろん、この話の中でははた迷惑な友人が出てくる。その人は、夜中に旅人を迎え入れたのである。夜中まで歩き続けた旅人を迎え入れたということは、その旅人もやっとの思いで辿り着いた知り合いの家だったのであろう。それゆえに、何も備えが無かった友は、夜中だとは思いながらも、別の友の家に行って、パンを分けてくれるように願ったというのである。はた迷惑な友人は、旅人のためにはた迷惑なことをした。旅人もはた迷惑だとは思いながらも、やっとの思いで辿り着いた。旅の過酷さと旅人の空腹を思うときに、友人ははた迷惑な行為に出ないわけにはいかなかったのである。これが祈りだとイエスは言うのだ。しかも、そのような祈りに応えて、天の父は「聖なる霊」を与えてくださると言う。

「聖なる霊」を与えられるということは、「聖なる霊」が働いてくださるということであろう。はた迷惑で恥知らずな祈りを導いてくださるということであろう。我々は、整った祈りを祈らなければと考えてしまう。ところが、イエスのこの話では恥知らずな祈りだといわれている。はた迷惑な祈り。それが真実に祈るということだと、イエスはおっしゃっているようである。そのような祈りは、聖なる霊の働きによるともおっしゃる。整然とした祈りではなく、破れかぶれの祈りで良いのだ。求めることは、父に駄々をこねるようで良いのだ。イエスが教えてくださった祈りは、父に駄々をこねるこどものような祈りなのである。

主の祈りが、駄々をこねる祈りだとは誰も思わない。これほどに整えられた祈りはないと言われる。確かに、大いなる天の父に呼びかけ、神の御名が聖とされ、神の国が来たるように祈る。ここまでは、いかにも信仰者らしいと思える祈りである。その後で、いきなりパンの祈りになる。お父様を褒め讃えた後で、パンをくれと祈るのである。世界平和や友のための祈りではない。明日のパンをくれと祈る。明日のパンとは、それによって存在を維持する食物である。聖書の原文では「明日のパン」となっている。新共同訳では「必要な糧」と訳されているが、この言葉はエピウーシオスというギリシア語で、「それによって存在する」という意味の言葉である。明日のためのパンなので「必要な糧」と訳されている。次の日を生きて行くために必要な糧である。明日を生きるためのパンを求める祈りである。このパンの祈りが、イエスのたとえ話で展開される。

このような祈りは、パンを食べるに事欠く人たちには切実な祈りであたっただろう。天の父の聖なることを誉め讃えつつ、明日のパンをくれと祈る。これは恥知らずというよりも、お父さんになら求めることができるということである。お父さんになら、自らの存在を支える糧をくださいと祈る。しかも、イエスのたとえ話では、友のためのパンである。はた迷惑なことであろうとも、聞いてくれるとイエスは教えておられる。

さて、パンの後で、罪の赦しの祈りも出てくるが、これも恥知らずな祈りだと言える。何故なら、罪を犯していながら赦してくれと祈るからである。罪を償いますからとは言わず、自分も他者の負債を許しますからというのである。もちろん、他者の負債を許すということが、自らの罪の償いだと考えることもできるであろう。そうであっても、他者の場合は負債であり、自らの場合は罪であることは、どういうことなのであろうか。

罪と訳されてはいるが、これは罪の複数形であり、もろもろの罪のことを指している。つまり、いろいろな罪を犯したということである。このように祈るということは、我々人間は常に罪を犯し続けているということである。誰一人として、わたしは罪を犯したことはないなどと言えないということである。誰であろうと、必ず罪を犯しているという前提がなければ、イエスはこのような祈りを教えなかったであろう。従って、我々が主の祈りを祈る際には、自分が気づかずに犯した罪も含めて、父なる神に赦しを求めるということである。わたしは、罪を犯した覚えはないという人であろうとも、気づかずにおかしている罪がある。気づかない罪も含めて赦してくださいと祈るということである。それゆえに、わたしが気づいている他者の負債を赦しますとも祈るのである。

その後、誘惑に導かないでくださいと祈るように、イエスは勧めている。この言葉も、直訳では「あなたが導かないでください」となる。父である神がわたしを誘惑に導くということがあるのだろうかと思える祈りである。ルターも小教理問答書で、これはわたしたちの肉の問題であると教えている。つまり、神が誘惑するというよりも、神の言葉を聞いた我々の肉が、悪に誘惑されるということが起こるのである。その悪とは、自分の力で神に喜ばれることができると考える罪である。我々人間は、毎日罪を犯し、まったくもって罰に値するしかない存在だとルターは言っているが、誘惑に導かれるのは、我々の肉の問題なのである。

聖書が言う「肉」という言葉は、人間的な思考のことである。自分は善い人間であると考える人間的思考こそが「肉」なのである。人間は悪でしかないというのが、聖書が語ることである。創世記8章21節で神ヤーウェはこうおっしゃっている。「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」と。我々がこのような認識を持っているときには、聖なる霊によって導かれているのである。それが、イエスが最後におっしゃる天から父が与えてくださる聖なる霊の働きである。

父を求める祈りである主の祈りは、父に包まれている祈りだから、徹頭徹尾父の力により頼む祈りなのである。従って、わたしが善い人間だから祈るのではない。悪い人間だけれども、罪を赦してくださいと祈る。そのような厚かましい祈りだということである。わたしの力では悪しか行わないのですから、どうか天から聖なる霊を送って、わたしを義しい道に導いてくださいと祈る。とにかく、存在を支えるためのパンをくださいと祈る。この祈りにおいて、我々人間は神の前に謙虚に跪くのである。そのように祈ることが、恥知らずで厚かましい祈りであろうとも、神は必ず聞いてくださるとイエスは教えてくださった。

わたしたちは、神に祈り求めることができるような存在ではないが、どうか父としてわたしをお守りくださいと祈ることを許されている。それがイエスが教えてくださった父を求める祈りなのである。イエスが、父に執り成してくださるからである。その執りなしは、あの十字架で行われた。十字架のイエスが教えてくださった祈りこそ、最強の祈りである。恥知らずな者も罪赦され、パンを与えられ、ただ神を信頼して祈ることができる。だだをこねるようであろうと、父は必ず聞いてくださる。そのように祈ることができるようにと、イエスはご自身の体と血を我々に与えてくださる。イエスと結ばれることで、神はわたしの父となってくださり、親しく祈りを聞いてくださる。どうか、あなたが父の守りのうちにあって、破れをさらしながらも、父の子として喜び生きることができますように。

祈ります。

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