「分離と解放」

2022年8月14日(聖霊降臨後第10主日 日田教会)
ルカによる福音書12章49節~53節

「地の上に、火を投ずるために、わたしは来た」とイエスは言っている。「その火がすでに燃えていたならば、わたしは他に何を望むだろうか」とまで言う。イエスが望んでいること、イエスが地上に来たときに持っておられたご自身の意志は「火を投ずる」こと。火という言葉が示しているのは、燃やし尽くして、何もなくなるという状態。皆が必死に守ってきたものが焼き尽くされて何も無くなることを、イエスは望んでおられるということであろう。

このようなイエスの言葉は、我々が考えるイエスの姿からはほど遠いと感じる。イエスは優しく、愛に溢れたお方であると思っている。しかし、イエスのうちには、この火が燃えている。この火が焼き尽くすのは、地上の社会において守られてきた体制。支配する者と支配される者という体制。その象徴が家族として語られている。

家族社会が我々の世界の原点であり、原型である。家という社会、家族という構成員。これと同じ体制をもって、国が国家となり、国民が臣民となる体制が作られてきた。それが第二次世界大戦において、日本が形作っていた国家主義体制であった。もちろん、イエス当時のイスラエルにおいても、同じ考え方があった。イスラエルの家族制度においては、家を代表するのは父親であり、父親だけが人間として認められた。妻や子どもは家財。つまり、家の主人の財産が妻や子どもであり、奴隷や家畜と同じく父親の所有物であった。このような体制において、社会は安定していると考えられていた。この体制を破壊する者は、社会の敵であり、社会を混乱に陥れる輩と考えられもした。戦時中、国家の危機に際して協力しない者は国賊と言われ、敵と同じように見なされたことと同じ。イエス当時のイスラエルを支配していたのも、このような考え方であった。そのような地上の社会にやって来たイエスが、「すでに火が燃えていたなら」と言うのは、火が燃えていることがご自身の使命だというかことである。つまり、イエスは地上の社会を焼き尽くして、新たにするためにやって来たとおっしゃっているのである。

このような前提に立って、イエスの言葉を聞くならば、家父長制度のような一人が支配する体制が崩され、一人ひとりが自分の足で立つ世界が確立されるために、イエスは来てくださったということになる。父と息子、母と娘、姑と嫁。これらの関係も、支配する側と支配される側の関係を作っていたけれども、その両方がそれぞれに立つという姿が語られている。それが分裂、分離なのだとイエスはおっしゃっる。

分裂や分離が悪いことであり、一致していることが良いことであると、我々は教えられている。どこの社会においても、このような倫理が教えられる。それは、社会を安定させるため。ところが、その安定のために、自分らしく生きることができず、自分を抑圧して、精神を病む人も出てくる。ジェレミー・ベンサムというイギリスの政治学者が語った「最大多数の最大幸福」という言葉が誤解されて、社会安定のためには少数の不幸になる人がいても仕方ないと考える。これが我々の一般的な社会の考え方である。弱く、声を上げることができない人間を見捨てていながら、自分たちの社会は安定していると考えるような体制に対して、イエスは火を投げ込み、分裂を生じさせるために、来たのだとおっしゃる。これがイエスの立場であり、生き方であった。

イエスは、社会の中から排除されていた病人、罪人と呼ばれて蔑まれていた人たち、徴税人として嫌われていた人たちと共に食事をした。イエスが優しく、愛を注いだ対象は、社会の中から排除されている弱い人たちだった。病人を癒し、罪を赦し、徴税人の家に入っていったイエス。社会の安定のために、排除されていた弱い人たちと共に生きたのはイエスであった。イエスがそのような弱者と共に生きたのは、火を投じるため、分離を促すための社会批判でもあったと言える。

家族の中でも、息子は父の言うことを聞かなければならない。家を継ぐために、我慢しなければならない。自分らしく生きることを求めても、家のために自分を殺して生きなければならない。だとすれば、そのような家は、息子を殺す家ではないかと思えてくる。イエスが言う「地や天の顔を見分けながら、このようなことも見分けることができないのか」という言葉が語られるのは当然である。自然現象を見分けるということは、経験を積み重ねていけば可能なこと。しかし、そこには雲と雨の関連を考えるという思考が必要になる。南風と暑さとの関係を見出すのも研究と思考が必要である。そのような経験を生かす思考を持っていながら、今の時に起こっている家族や国家の問題を十分に思考できないのはどうしてなのかと、イエスは問うている。それは、関心がないからである。

我々が考えるということは、関心があるから考える。雨が降るときを知ることができれば、早めに対処できると考えるがゆえに、雨と他の自然現象との関係を見出そうと観察し、研究し、思考する。暑さに備えるために、暑さと他の自然現象との関係を何とか見出そうと観察し、研究し、思考する。その結果、地や天の顔を見分けることができるようになる。聖書の原文では地と天の「顔」と記されているが、これは「地と天の容貌」であり「地と天の様子」である。この「地と天の顔」を見て、知ることができるのに、時の顔を知ることができないのは何故かとイエスは問うている。

しかし、自分たちが安定していると考えている家族や社会においては、問題を起こす人が悪い人であり、その人を矯正して、社会に順応させれば良いという思考に陥る。あるいは、社会を混乱に陥れる人は、排除し、隔離すれば良いという思考にもなる。弱い人たちの声なき声に耳を傾けることなく、彼らが悪いからそうなっているのだと考える。悪いものを取り除けば、良いものだけになると考える。イエスの当時も、現代も、排除する側の人間の論理は何も変わっていない。排除される側に寄り添うことも、彼らの苦しみを考えることもできないまま、関心を示すことなく、自分たちの安定のみを求める。そのような社会が、神の意志に従った社会なのか。神の国と言えるのか。社会の中で敵のように見なされ、排除される人たちがいるにも関わらず、自分たちは平和だと考える。排除される側に置かれたことがない人間たちが、排除しながら社会は安定していると主張する。イエスは、このような社会の愚かさや偽善を糾弾した。それが火を投ずるとイエスが言うことであった。その結果、イエスは十字架という洗礼を受けることになったのである。

イエスの十字架は、火を投ずるイエスそのもの。社会を不安定にすると考えられて、社会から排除され、殺害されたイエス。しかし、イエスの復活を通して、神はイエスの意志を肯定した。神ご自身の意志とイエスの意志とは一つであると宣言された。ゲッセマネで、イエスが祈ったように、神の意志がなることこそ、イエスの意志であった。火を投ずることが神の意志であった。これを蔑ろにして、神の国は来たらない。

我々人間社会が、一人ひとりが自分らしく生きることができる社会となることが、イエスの意志であった。誰かに支配されることなく、誰も支配することなく、それぞれが自分に与えられたいのちを相応しく現していくこと。これがイエスが地上に来てくださったご意志である。この言葉を聞いている我々は、今一度自らを顧みなければならない。自分のいのちを現すことができるように。自分と同じく、隣人がいのちを現すことができるように。弱い立場の人たちを守る社会であるように。キリストによって、一人の人間として救われた我々は、隣人が一人の人間として生きるために、仕えて行かなければならない。イエスが投じた火を広げていくのは、イエスに救われた弱き者たち。聖餐を通して、その弱き者のうちにキリストが入ってくださる。わたしのうちに生きてくださるキリストと共に、神の意志を生きていくことができますように、祈り求めよう。キリストのうちに燃えている火があなたのうちにも燃えて行きますように。

祈ります。

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