「無力を知る奮闘」

2022年8月21日(聖霊降臨後第11主日)
ルカによる福音書13章22節~30節

「あなたがたは奮闘しなさい、狭い戸口を通って入ることを」とイエスは言っています。奮闘するという言葉が使われて、狭い戸口から入るには、奮闘することが必要だとイエスは言います。その奮闘は、個人として入る奮闘。一人ひとりが奮闘するということです。誰かと一緒に入るのではないのです。わたしという個人が狭い戸口に向かって奮闘するということは、一人でしか奮闘できないことだとイエスはおっしゃっているのです。だからこそ、広場で教えてもらったとか、一緒に食事をしたということでは、主人に知ってもらうことはできなかったと述べられています。

戸が閉じられた後、彼らは「主よ、わたしたちに開いてください」と言っています。新共同訳では、はっきり訳されていませんが、彼らは「わたしたち」という集団に対して「開いてください」と願っているのです。それに対して、主人は「わたしは知らない、あなたがたを」と言うのです。主人は、集団を知らない。集団ではなく、個人として主人との関係を生きているかどうかが問われていると言えます。

集団というものは、個人を隠してしまいます。わたしという個人が、集団の中に隠れてしまいます。集団では、わたしは他者との関係を結ぶことはできないのです。「狭い戸口を通って入る」ということは、一人ひとりが個人として入ることであって、集団で入ることではないのです。自分を隠して入ることもできないのです。裸の自分自身として入ること、それが「狭い戸口を通る」ということです。では、その奮闘はどのような奮闘なのでしょうか。「狭い戸口を通る」ためには、わたしが小さくならなければならないということです。わたしが大きいままでは、狭い戸口を通ることはできないのです。

わたしたちは大きくなることを求めています。誰であろうとも、大きくなって、地位を得て、社会に認められるようにと努力しています。これが地上のこの世の努力です。救われる人が少なければ、救われる一人に入るために、他の人よりも良い地位を獲得し、財産をより多く貯め込んで、社会的に認められる人間になるように努力する。一番になるように努力しなければ、落ちこぼれていく。一番後になって、忘れられていく。それが嫌なので、わたしたちは努力するという考え方に染まっています。「奮闘しなさい」という言葉を聞けば、何かを獲得して、少しでも一番に近づくことだと考えてしまうのです。ところが、イエスが言う奮闘は、「狭い戸口を通る」奮闘であって、小さくなる奮闘です。大きくなろうとしていた人間が、小さくなることができるのでしょうか。求めていた方向が逆転しているのです。一番になるように努力していた人が、一番後になるように奮闘する。地位を求めていた人が、何者でもない者になるように奮闘する。財産を貯め込んでいた人が、財産を捨てるように奮闘する。このような奮闘ができるのでしょうか。

何者でもなく、何も持っていないとすれば、わたしたちは不安になります。小さくなれば、自分を認めてもらえなくなると思います。社会から排除されたくないために、努力しているからです。しかし、わたしという存在は、裸のままでもわたしです。何かを持っていても、持っていなくても、わたしです。大きくても、小さくても、わたしです。わたしという存在は、いったい何でしょうか。何がわたしをわたしとしているのでしょうか。

みなさんは、自分自身というものがどこにあると思いますか。あなた自身はどこにいると思いますか。あなた自身をあなた自身としているのはいったい何でしょうか。考えたことがありますか。自分を生きるとはどういうことか考えたことがありますか。他の人が認められている姿を見てうらやましい、と妬む気持ちが湧いてきますが、本当にうらやましいことなのでしょうか。自分には生きる価値があると社会に認められることで、わたしは生きているのでしょうか。わたしが社会から排除されれば、生きる価値がないのでしょうか。その価値は誰が決めるのでしょうか。わたしと同じ人間が、わたしの価値を決めるのでしょうか。もし、そうであれば、わたしに価値を認めてくれる人の支配下にあることになります。わたしは、誰か他の人間の支配下にあるのでしょうか。

神が創造された世界において、わたしは誰の支配下にもいないのです。人間ではなく、人間を超えたお方がわたしを支配しておられる。人間よりも大きなお方がわたしを支配しておられる。そうであれば、人間がわたしを支配することはできないのです。先週のみことばでも、人間同士の支配関係から分離するために、イエスは来てくださったと語られていました。人間同士の間で、誰が上か下か、誰が価値があるか、ないかと考えているような世界を覆すために、イエスは来てくださった。この世の価値、この世が求めている努力の在り方から解放するために、イエスは来てくださった。この世の価値観はイエスがもたらした価値とは正反対なのです。だからこそ、イエスは「狭い戸口を通って入ることを奮闘しなさい」とおっしゃるのです。小さくなる奮闘、何者でもないようになる奮闘。このような奮闘をイエスは求めておられる。イエスは、何をしなさいとおっしゃっているのでしょうか。狭い戸口を通って入る奮闘とはいったい何でしょうか。

わたしたちは努力して、小さくなることはできません。小さくなることで、入ることができるのであれば、小さくなろうと思う人もいるでしょう。しかし、わたしたち人間は自ら小さくなることはしたくないのです。誰も、自分が認められないようになる努力などしたいと思いません。できれば、大きくなりたいのです。同じように、神の国に入ろうと躍起になっても、入ることができない人が多いとイエスはおっしゃっています。多くの人が入ろうとして入れない。力が無いと、イエスはおっしゃる。小さくなることができないからです。「狭い戸口を通る」ために小さくなることは、わたしにはできないのです。わたしはそれほどに大きくなることに捕らわれています。不安で仕方がない。力無い自分をどうにも仕様がない。そのような自らの無力を知る奮闘。このような奮闘は、どのようにして可能となるのでしょうか。自らの力を捨てれば良いのでしょうか。しかし、捨てられない。努力しなければ良いのでしょうか。しかし、しないでいることは不安で仕様がない。わたしたちは、何もしないということができないのです。これが「無力である」ということです。しないことができないという無力さを知ること。それはわたしの力に絶望することです。不安に陥るでしょう。しかし、神に祈る者とされるのです。

祈りは、狭い戸口を通ることです。神との個人的な関係に入ることです。わたしたちとして神と関係を結ぶことはできないのです。わたしとして、神に助けを祈る。このわたしを助けてくださいと祈る。ルカによる福音書23章42節で、イエスと共に十字架につけられた二人のうちの一人がイエスに言います。「イエスよ、わたしのことを思い起こしてください、あなたがあなたの国へ入るときに」と。彼は、十字架の上で、イエスに個人的に願い求めた。その人に向かって、イエスは言います。「確かに、確かに、あなたに、わたしは言っている。今日、わたしと共に、あなたは存在するであろう、楽園のうちに」と。イエスの「わたし」と罪人の「わたし」が語り合っています。「わたし」と「あなた」の関係に入っています。これが「狭い戸口を通る」ことです。

わたしたち人間には不可能であることを越えるのは、神の力に依り頼む信仰です。わたしが無力であろうとも、神は力あるお方。わたしには不可能であろうと、神は全能である。神に依り頼む信仰こそが、小さくされた者に開かれている狭い戸口。神から来る力を受け取るのは、信仰という狭い戸口。わたしは無力である。しかし、神は力あるお方。わたしを支配しておられるのは、神のみ。この信仰を通して、わたしたちは狭い戸口を通ることができる。聖餐は、狭い戸口を通るための鍵をあなたに与えてくださる。十字架の上で、小さくされたイエスが小さなあなたのうちに入ってくださる。このお方に信頼して、祈り求めましょう。

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