「残るべきもの」

2022年9月4日(聖霊降臨後第13主日)
ルカによる福音書14章25節~33節

「わたしの弟子として存在することは可能ではない」と三度もイエスは言っています。今日の日課の中で三度言うということは、絶対に弟子であることはできないとおっしゃっているかのようです。ただし、ここでイエスがおっしゃっている条件を満たせば、可能だということでしょう。その条件とは、一つ目は「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら」、二つ目は「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ」、そして三つ目は「自分の持ち物を一切捨てないならば」と言われています。これらのイエスの言葉は、とても難しいことです。しかし、わたしたちは聞き流して、とりあえずイエスを信じているのだから大丈夫だろうと思っています。これらの条件を真剣に聞くならば、到底わたしはイエスの弟子ではあり得ないと思えます。イエスに従うということは困難だと思えます。でも、自分はイエスに従ってきたとも思っているのです。洗礼も受けたし、イエスの言葉を毎週聞いているし、聖餐にも与っている。少なくとも、日曜日の礼拝の間だけはキリスト者として過ごしている。だから、わたしはイエスに従っていないわけではない。でも、このイエスの言葉は到底守ることはできないと思う。

家族を憎むとはどういうことだろうか。自分のいのちまでも憎むとはいったいどんな人間だろうか。よほど、ひどい家族でない限り、憎むことなどできない。家族は大切ではないか。先々週のみことばでイエスがおっしゃったように、家族が分裂して良いものか。もちろん、そのみことばは一人ひとりが神との関係を生きるということではあったのですが。そうであれば、自分のいのちは大切ではないか。自分の十字架って何だろうか。苦しいことなのだろうか。わたしが誰かのために苦しむことなのだろうか。誰かのために犠牲になるということだろうか。そんなことはできない。持ち物をすべて捨てたら、生きていけない。野宿して生きるのだろうか。このように現実的に考えると、到底できないことを条件としてイエスは提示しておられると思えます。そうであれば、わたしたちはイエスの弟子にはなり得ないということです。

キリスト者として洗礼を受けたということは、イエスの弟子になったことではないのでしょうか。イエスに従って生きて行くと告白したのではないのでしょうか。それなのに、今の生活を捨てることはできないし、今の家族を解体することもできない。まして、自分のいのちを捨てることなど到底できない。そのようなわたしはイエスの弟子としてのキリスト者ではないということになる。わたしは救われないのだろうか。このようにわたしたちは考えてしまいます。今日のイエスの言葉は、わたしたちのいい加減さを突き刺す言葉です。曖昧にしてきたことを否応なく考えさせる言葉です。言い逃れできない言葉です。

戦後、何もなくなった中で、教会に触れて、聖書の言葉にそれまでの価値観を覆された経験を持っている方もいるでしょう。でも、社会に出て、居場所を見出し、地位を得て、財産も手に入れた。そうなると、何もなかった頃とは違って、捨てられなくなる。全部捨てる必要はないだろう。自分が生きていくことができる分を取っておいて、残りを人のために使えば良い。そう考えて来たけれど、自分に必要な分が毎年増えていく。あれも必要、これも必要。捨てるのはもったいない。こうして、わたしたちキリスト者も貯め込んでいくのです。イエスの弟子となることは困難です。では、わたしは救われないのでしょうか。

この言葉の後で、イエスは塩の話をしておられます。日課には入っていませんが、塩は塩味を失ってはならないという言葉です。この言葉は、別の話ではないのです。敵の大軍との戦いの話も、自分自身を失わないことが求められていると言えます。わたしたちが戦うのも、わたし自身を守るためだと思い込んでいますが、実は自分が貯め込んだものを守るためではないでしょうか。貯め込んだもののことを、イエスは「持っているもの一切」と言っているのです。わたしたちが守ろうとしているものは、わたし自身ではなくて、貯め込んだものだとすれば、それらを捨てて、自分そのものを守ることをイエスは勧めていることになります。貯め込んだものを捨てたあとに残るもの。それがわたし自身なのです。このわたし自身をはっきり認識するために、座って、良く考えなさいとイエスはおっしゃっているのです。

塩に塩味があるように、わたしにもわたしの味がある。わたしの味はわたしが持っているものを取り除いた上で残るわたしそのものに備わっている味です。その味を付けたのは誰かと言えば、神様です。わたしを造ったときに神様が付けてくださった味がある。それぞれに与えられている味がある。その味を失うならば、何の役にも立たないものとなる。塔を建てるときにも、建てるだけの力があるかどうかを考えてみなさいとイエスはおっしゃる。これも、自分の分を弁えるということでしょう。自分自身を良く見つめなさいとイエスはおっしゃっているのです。見つめた結果見出すものが、残るべきもの、残すべきものであるあなたの味なのです。神様がつけてくださったあなたの味がある。そのあなた自身を見出したときに、あなた自身がイエスの弟子とされていることも見出すということです。

わたしたちは、自分の力でイエスの弟子になるのではありません。神様が、そしてイエス様がわたしをそのように造ってくださるのです。「なる」と訳されていますが、「存在する」という言葉です。存在するということは、神様によって存在させられていることを表しています。神さまがわたしを新たに存在するようにしてくださるのは、イエスの弟子とするためです。わたしたちは、洗礼を受けた直後から完全にキリスト者になっているわけではありません。むしろ、ほんの少しだけキリスト者とされているのです。1%かも知れません。残りの99%は、この世の今までの生き方のままです。その99%で、この世に生きているのがわたしなのです。しかし、この99%の部分は神に背いてきた部分でもあります。そういう部分を捨てきれないわたしがいるのです。これを捨てていく道を歩いているのが、キリスト者です。イエスというお方が開いてくださった道を、イエスの十字架を仰ぎつつ歩んで行くのがキリスト者となりつつある者の道行きです。ですから、わたしたちは少しずつ、自分が貯め込んだものを捨てながら、歩いて行くと考えるべきでしょう。

マルティン・ルターの当時は、完全にキリスト者になって、イエスの弟子として生きていると考えられていた人たちが聖人でした。その人たちは、わたしたち俗人が到達できないほどの完全さでイエスに従った弟子たちだったと言われていました。その人たちが、教会に宝として貯め込んだ功績から、少しだけあなたに分けてあげましょう。そうすれば、あなたが犯した罪の償いを免除されるでしょう。そのために、お金を出して、贖宥状をお買いなさい。もちろん、先に亡くなった家族も、煉獄で苦しんでいますから、その人たちの分も買うことができますよ。あなたが、この箱にチャリンとお金を入れれば、あなたの家族の魂が天国に行くのです。さあ、お入れなさい。と勧める人も出て来ました。現代のカルトのようですね。これに対してルターは、いやいやそうではないぞと反論しました。一人ひとりが悔い改めるのであって、お金で赦しを買うことなどできないのだ。むしろ、信仰によって、わたしたちは罪の赦しを与えられていることを受け取ることができるのだと教えました。そして、完全なキリスト者になるようにと、イエスの道の上に置かれているのが、わたしたちなのだと教えたのです。

わたしは完全ではない。不完全なキリスト者です。それでも、イエスが開いてくださった道を歩いている。少しずつ、キリスト者とされていく。この道を歩くことが、わたしたちがイエスの弟子とされていく唯一の道なのです。あなたのうちに信仰を起こしてくださった神が、あなたを歩ませてくださっています。このお方に信頼して、歩き続けましょう。イエスが開いてくださった道を、残るべきわたしを見つめながら。祈ります。

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