「失われた者の回復」

2022年9月11日(聖霊降臨後第14主日)
ルカによる福音書15章1節~10節

「神の天使たちの前で、喜びが生じている、一人の悔い改めている罪人の上に」とイエスはおっしゃっています。この言葉に出てくる「悔い改めている」という現在形の言葉とイエスが語っておられるたとえはどう関係するのでしょうか。ちょっと合わないと思えてしまいます。たとえの中では、羊が「悔い改めている」のでしょうか。銀貨が「悔い改めている」のでしょうか。わたしたちが考える「悔い改めている」ということとは違うように思えますよね。普通、悔い改めというのは、自分で悪かったと思い直して、戻ってくることだとわたしたちは考えています。それなのに、イエスのたとえは銀貨が「悪かった」と戻るわけではありません。羊が「悪かった」と戻ってきたという話でもないのです。自分から戻ってきたのであれば、羊や銀貨が「悔い改めている罪人」だと理解できますが、連れ戻されたり、見つけられたというだけの銀貨や羊が「悔い改めている罪人」なのでしょうか。もし、イエスのたとえが「悔い改め」とは何かを語っているのであれば、わたしたちが考えている「悔い改め」とは違うのだということになります。

わたしたちが考えている「悔い改め」は、日本語で読んで字の如く、悔いる人が自分で改めるということです。ここで使われているギリシア語はメタノエオーという言葉ですが、「メタ」とは「変える」という接頭辞です。「ノエオー」は「考える」という動詞なので、「変えて考える」ということになります。考える方向が変わる。あるいは、今までとは違うように考えるということです。ヘブライ語では、「悔い改める」と訳される言葉は、シューブという言葉ですが、これは「向きを変える」とか「戻る」という意味です。神さまに背いたイスラエルの民に向かって、神さまが「シューブ」と呼びかけるのですが、それは「帰ってこい」と呼びかけているわけです。その呼びかけに応えて、神さまの許に戻ることを「悔い改め」と言うわけです。悪かったとか、間違っていたと認めて、神さまの許に戻るのですから、自分で戻っているわけです。これが「悔い改め」と言われる事柄の聖書的な意味です。ところが、イエスのたとえは、このような考え方とは別物ですね。

字義通りに「悪かった」と思い直しているのは、このたとえの中では、羊飼いや女ではないでしょうか。どちらも、自分が知らないうちに見失ってしまったことを悔いて、見つけるまで探すのです。銀貨を失ったことに対して、失ってしまって申し訳ないと思いながら探している女だとすれば、女が悔い改めているのではないでしょうか。銀貨は悔い改めているわけではないのです。羊飼いもそうでしょう。羊飼いも見失ってしまったことを自分の注意が足りなかったと悔い改めて、羊を探すのです。悔い改めているのが、羊飼いや女であるとすれば、このたとえが語っている悔い改めは、一般的悔い改めとは違うということになります。羊のたとえの最後のイエスの言葉「悔い改める必要のない九十九人」とは本当に悔い改める必要がないのでしょうか。

イエスの当時において、羊飼いや女によって表されている存在はいったい誰でしょうか。残っている九十九匹や九つの銀貨が、ファリサイ派や律法学者だとすれば、探しにいく羊飼いや女はいったい誰になるのでしょうか。銀貨が「いやー、悪かった、隠れていて」と言って、戻ってくるのではないのですよ。女が、「落としてしまって、ごめんね。やっと見つけたけど、落としたわたしが悪かったわ。」と言っているのではないのでしょうか。羊が「ごめんごめん、勝手にうろついて、迷子になっちゃった。」と言って、戻ってきましたという話でもないのです。羊飼いの方が「見失ってしまって、ごめんね。恐かったでしょう。」と言っているのではないのでしょうか。しかし、残っている九十九匹も九つの銀貨も何も感じてはいないのです。そして、イエスを批判するファリサイ派の人たちのように、「こいつが勝手に迷子になって、俺たちは良い迷惑だ」と言っているのではないでしょうか。当時の社会において、「罪人」だと決めつけられて、排除されていた人たちのことを社会は気にも留めていない。誰も迎えに行かない。それゆえに、羊飼いや女が迎えに行く。そして、連れ帰って、残っている者たちに言うのでしょう。「一緒に喜んでください」と。そうなったときには、神の天使たちの前で、喜びが生じているのだとイエスはおっしゃっています。だとすれは、羊飼いや女は神だということになりはしないでしょうか。本来の意味において「悔い改める」べきは、社会の方であって、排除された罪人と言われる人たちではないはずなのです。この言葉をわたしたちはどのように聞くのでしょうか。

わたしたちは、社会に適合しない人たちを捨てています。彼らが適合しないのが悪いのだと考えています。果たして、そうなのでしょうか。わたしたちが彼らを排除していること自体が間違っているとすれば、わたしたちが悔い改めるべき存在ではないのでしょうか。それにも関わらず、わたしたち義しいと思い込んでいる人間は悔い改めることなく、代わりに神が彼らを迎えに行ってくれた。そして、一緒に喜んでくれとおっしゃった。それがイエスの地上での活動において起こっていたのです。社会に適合させようとして、わたしたちが苦しめている人たちが存在している。彼らは、社会から締め出されて、どこにも行き場がなくて、困っている。そのような人たちがいても、気にも留めず生きている社会。このような社会の方が、彼らを探しに出かけなければならない。そして、社会を変革して、彼らが生きやすいようにしていかなければならない。しかし、そうできない社会に代わって、神が、イエスが迎えに行った。イエスのたとえが語っているのは、このようなことではないのでしょうか。

わたしたちはあまりに社会の安寧ばかりを考え過ぎています。社会を乱す者は排除してしまえば、すっきりすると考えています。社会を乱す者が、苦しんでいるということを考えることもないままに、社会の方が正しいのだと思い込んでいるのです。果たして、そうなのでしょうか。社会に溶け込めない存在が悪い存在なのでしょうか。そのような社会を作っているわたしたちの方が間違っているのではないのでしょうか。イエスはそのような視点を与えてくださるたとえを語っているのです。悔い改めるべきは、社会の方であるとすれば、このたとえが語っている「悔い改め」はまったく違う方向性を持っていることになります。大多数が正しいのであって、抜けてしまう少数者が悪いのだという考え方で良いのか。このことをわたしたちはよくよく考えなければならないのです。

神が連れ戻しても、九十九匹の羊の群れの方が戻ってきた一匹の羊を受け入れないならば、前と同じことになるのです。戻ってきた銀貨をまた見失うということになるのです。一匹の羊、一個の銀貨が相応しく保たれるためには、残された大多数の義しいと自負している者たちがその一匹や一個の銀貨に注意を向けていなければならないのです。この注意を怠ったために、見失ってしまったのですから。そう考えれば、回復されるべき失われた者とは、残っている大多数だということになるのです。大切なものを失っている社会が回復されなければならないのです。神が願っておられるような社会に戻るべきなのです。神が造られた世界が、罪人と言われる一人の人も見失うことなく、その人たちが受け入れられるような世界になること。それこそが、イエスが語っておられることではないでしょうか。

わたしたち一人ひとりが救われたのは、そのような社会を作るために救われたのだとすれば、わたしたちは一匹の羊であり、失われた銀貨なのです。その銀貨が、その一匹の羊が、社会を変革していく種になるということです。わたしたちは、失われていた存在かもしれません。しかし、イエスによって見出され、救われた存在なのです。社会から外れていても、この社会の中で変革の種として生きるようにと救われた。それがわたしであると信じるならば、わたしたちは、他の見失われている存在を見つけ出して、一緒に変革の旅を続けていく者でありたいと思います。神の御前で喜びが生じる世界でありますように。

祈ります。

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