「何者でもなく」

2022年9月18日(聖霊降臨後第15主日)
ルカによる福音書16章1節~13節

「わたしは認識した、何をわたしが行うのかを」。金持ちの家の家計を管理する仕事をしていた管理人はこう言っています。「そうだ。こうしよう。」と訳されている言葉はこのような意味です。彼は何を為すべきかを認識したと言っているのです。それは、「わたしが家計管理から離されたときに、彼らが彼らの家へとわたしを受け入れるために」為すべきことだと彼は考えたのです。それは、イエスがたとえの最後でおっしゃっている「友を作る」ということでした。

「友を作る」。これはどういうことでしょうか。管理人は、主人から借金している人たちを一人ずつ呼んで、借用書を書き換えさせています。それが「友を作る」ということなのでしょうか。彼らの借用書を破り捨ててやったというのではないのです。借金を正当な額にしてあげたというだけです。そんなことで、彼は「友を作る」ことができるのでしょうか。しかし、イエスはこれが「友を作る」ことだとおっしゃっているのです。それは、不正を正し、相応しいものにするという行為を通して、不当に搾取されている人たちと連帯するということです。それが「友を作る」ことだというわけです。

油は半分水増しされていたわけですね。小麦は五分の一の水増し。律法には高利貸しは禁止されていますが、金持ちは、このようにして、お金を儲けていたのです。その手先として働いていた家計管理人は、すべてを知っていた。それで、ここで正しい額に戻しているということでしょう。それならば、もっと前に正すべきではなかったのかと思えてきます。しかし、雇われ人は主人の言うことに従わなければクビになるでしょう。クビになるのはイヤですから、主人が言うままに水増し額で借用書を作成していたのが家計管理人なのです。彼は、主人に雇われている間は、クビになりたくないので、主人に従っていた。そして、主人が不正に儲けているのだから、自分も主人のお金をくすねても良いだろうと考えたのでしょう。しかし、それが主人に知られてしまった。おそらく、他の使用人が管理人を妬んで、告げ口をしたのかもしれません。それで、クビになることが明らかになったので、管理人は考えました。どうしたら良いだろうかと考えてみて、ようやくすべてを正しく行うことが最善であると認識したわけです。そうすれば、正直な友として、主人に借金していた人たちが自分を迎えてくれるであろうと考えたのです。大事なことは、正直さだったというわけです。正直なことが真実の友を作ることにつながるということでしょう。

9節でイエスはおっしゃっています。「金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」と。原文は、「それが尽きてしまったとき、彼らは迎え入れる、あなたがたを、永遠の幕屋たちへ」となっています。友たちが迎え入れると言うのです。友を作った人たちを迎え入れるのは友たちなのに、「永遠の幕屋」に迎え入れると言われています。神が迎え入れるのではないのでしょうか。どうして、友たちが迎え入れるのでしょうか。この友たちは、この世で苦しめられ、搾取され、排除された人たちなのです。このたとえに出てくるような困窮した労働者たちです。搾取され続けて、何もなくなって神の許に迎え入れられた人たちです。次週の日課の貧しいラザロのように金待ちの門前で乞食をするようになったかもしれない人たちでしょう。そのような人たちを友として作っている人は、彼らに連帯している人ですから、彼らは連帯してくれた人を迎え入れるだろうということです。「永遠の幕屋」とは神を礼拝する幕屋でしょう。それぞれに幕屋を与えられている貧しい者たちが、自分たちに連帯してくれた人たちを自分の幕屋に迎え入れて、共に神を仰ぐ。そのような光景をイエスは語っているのかも知れません。

家計管理人は、この世で自分の仕事を守ること、自分の地位を守ることしか考えていなかったでしょう。この世は不正に満ちているのだから、自分も同じように不正をしても良いだろうと考えていた。その不正によって苦しんでいる人がいても、気にもしていなかった。しかし、自分が捨てられることになったときに、苦しんでいる人たちの気持ちが分かってきたのです。不正に荷担するならば、不正にまみれてしまうだけではなく、搾取する側に立ってしまうということを知ったのです。それで、不正を正すことで、主人にも借りている人たちにも不公平のないように行動した。主人は、この管理人が「賢く行ったこと」を誉めたと、イエスは言うのです。自分が儲け損ねたのに、主人は「賢い行為だ」と誉めたのです。自分が管理人を訴えることができなかったということでしょうね。

管理人は、クビを言い渡されて、何者でもなくなりました。ただの人です。そうなって、ようやく他者の苦しみを理解することができたのです。他者に目を向けることができた。その人たちの友になる道が見えてきた。何者かであるとき、わたしたちは何者かであるわたしを守ることを至上命令として生きています。しかし、自らが何者かであることが、他者の苦しみの上に築かれていることを知るのは、自分が何者でもなくなったときだというわけです。それが、「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である」とイエスがおっしゃることです。

「忠実」と訳された言葉は、ピストスというギリシア語ですが、この言葉は「信仰」というギリシア語ピスティスと同根の言葉です。「信頼に足る」というのが原意です。「神はピストスである」と使徒パウロも使っています。コリントの信徒への手紙一10章13節でこう言っています。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」と。神がピストスであるということは、神から与えられている試練があろうとも、必ず出口があり、良き道につながっているということです。だから、落胆することはない。神が備えてくださった道を受け入れて、神に信頼して、歩み続けなさいとパウロは語っています。それは、彼自身の信仰的経験からの言葉でしょう。そこから考えてみれば、イエスが言う「忠実さ」ということも、神への信頼に基づいた「誠実さ」であり、信仰であると言えます。

このたとえの中で、管理人が行ったことは、借金の帳消しではなく、正当な額に戻すということです。帳消しにしてもらった方が良いのではないかと思えますが、それでは不正になる。帳消しにしてもらった人は、後で訴えられて、高額な費用を取られるかもしれません。しかし、このちまちました書き換えでは、主人も不正だと訴えるわけにも行かずということでしょう。ちまちましたことですが、正しい額に戻したというだけのことです。このごく小さなことを誠実に行った管理人は、不正を行わない人として、借金していた人に認められるでしょう。そして、彼らと連帯してくれる人だと認められるかも知れません。管理人は、この後は搾取されている人たちの側に立って生きることになるでしょう。こうして、彼らが神の許に迎えられるとき、彼らと共に管理人も迎えられるだろうとイエスはおっしゃっているのです。正しいことを正しいとする行為。それが、友を作ることであるとすれば、富が不正の結果であろうとも、正して行く人には正しく用いられるということです。そのような人は永遠の幕屋へと迎えられるであろうと言われているのです。

わたしたちは、この世で苦しめられている人たちを搾取する側にいるのか、それとも搾取されている人と連帯していく者であるのか。信仰とは、正しいことを正しいとするものです。何故なら、信頼に足るという言葉と同じく、信仰は信頼に足る人間を作るからです。この信仰をわたしたちに与えてくださるのは神とキリストです。キリストの体と血は、わたしたちのうちに働いて、真実なる神のいのちを回復してくださいます。無償で与えられる恵みの賜物を今日も受けて、キリストに従って生きて行きましょう。

祈ります。

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