「聴く信仰」

2022年9月25日(聖霊降臨後第16主日)
ルカによる福音書16章19節~31節

「もし、モーセと預言者たちのことを彼らが聴いていないならば、死者たちのうちの誰かがもし復活したとしても、彼らは説得されないであろう」とイエスはたとえ話を結んでいます。これはアブラハムの言葉になっていますが、イエスの本音でしょうね。「彼ら」となっていますが、イエスにしてみればファリサイ派や律法学者たちユダヤ教の指導者たちのことを語っているのだろうと思えます。イエスから見れば、彼らは、聴く耳を持っていないというわけです。それは、貧しい人たちの苦しみに耳を傾けていないことと同じことだというわけでしょう。ここに出てくるラザロという貧しい人が食べるものもなくて苦しんでいるのに、金持ちは豪華な食事をしているという対照的な姿と同じですね。金持ちは、ラザロの苦しみを知ろうともしないし、気にもかけてはいないのです。イエスを批判するファリサイ派の人たちも同じく、代々受け継がれてきた伝統に従いながらも、聖書が語っていることに耳を傾けようとはしていないということです。ファリサイ派の人たちは、貧しい人たちと食事を共にしてきたイエスを批判するだけで、自分たちは貧しい人たちのために何もしなかったのです。彼らが貧しく、苦しんでいるのは罪のためであり、神の罰だとさえも考えていたようです。イエスが貧しい人たちの苦しみに寄り添って生きる姿を見ると、罪人と一緒に食事をしているから、イエスは汚れていると批判し始めました。自分たちへの批判的な行動だと思ったからでしょう。このまま放置していたならば、自分たちの立場が危うくなってしまうと考えたかもしれません。それで、イエスを殺害する計画を立てるようになって行きます。イエスは、ご自身の十字架の死と復活を視野に入れながら、たとえの最後の言葉を語っているのではないでしょうか。「もし、モーセと預言者たちのことを彼らが聴いていないならば、死者たちのうちの誰かがもし復活したとしても、彼らは説得されないであろう」と。実際、イエスが復活して、弟子たちに現れ、弟子たちがイエスの復活を宣べ伝えるようになったとき、復活したイエスの言葉に耳を傾けることはありませんでした。イエスがおっしゃっているのは、この事実の先取り、預言だと言えるでしょう。復活したお方の言葉を信じるのは、聴く耳を持っている者だけだということですね。

聴く耳を持っているならば、金持ちはこのようなところに来ることもなかったとイエスはおっしゃっているのです。だから、生きているときに、聴くことが必要なのだというわけです。死んでからでは遅いのです。アブラハムが言うように、死んだ後ではラザロがいるところと金持ちがいるところには深い淵があって、越えることはできないのです。生きている間も、門前のラザロと食卓の金持ちという深い淵があったのです。もちろん、金持ちが言うように、生きている兄弟たちに知らせて、こんなところに来ることがないようにしたいと思うのは当然です。金持ちも、生きているうちにこんなところに来ることがないようにしておかなければと思って、ラザロを復活させて、自分の兄弟たちのところに派遣して欲しいとアブラハムに願うのです。しかし、金持ちは、死んでからでも、ラザロを使うこと、他者を使うことを考えているのです。金持ちは、他者を使うことが習慣になっていたからでしょう。平気で人を使うのです。自分で行おうとはしないのです。ラザロではなく、自分を復活させてくださいとは言わないのですね。そうしたら、自分が兄弟たちを説得しますからとは言わないのですよ。金持ちは自分が労苦することを避けています。金持ちの在り方は、生きているときから死んだ今も変わらないということですね。だとすれば、生きているときに変わるしかないのです。そのために、神の言葉である聖書が記されているのです。モーセと預言者たちが語った言葉が残されているのです。この言葉を良く聴いて、自分を省みて、神に依り頼む信仰を起こされるならば、次第に変えられていくでしょう。しかし、聖書を読まなければ、自分を省みることもなく、神に依り頼むこともなく、信仰を起こされることもないのです。信仰は、神の言葉から来るからです。神の言葉が、わたしたちのうちに働いて、信仰を起こすからです。そのような信仰は、聖書を読まなければ与えられません。聖書を読まない人には信仰は起こされないのです。だからこそ、アブラハムは言うのです、「あなたがたはモーセと預言者たちを持っている」と。持っているモーセと預言者たちを良く読んで、そこで語られている言葉に耳を傾けなさい。そうすれば、このような苦しいところに来ることはないのだと、アブラハムは金持ちを諭しているわけです。

ファリサイ派や律法学者たちは、聖書を読んでいたはずじゃないのかと、わたしたちは思います。聖書を研究し、聖書が語っている神の言葉を守るために、懸命になっていたとわたしたちは教えられています。それなのに、彼らが聖書を正しく聴いていなかったとすれば、どうしたら良いのでしょうか。わたしたちも、聖書を読んでいながら、聴いていないのでしょうか。彼らは聖書を理解することを求めていました。ところが、聖書は理解するものではないのです。理解するよりも、受け入れ、従うものです。神に信頼して生きるために、聖書は与えられているからです。理解したところで、聖書の言葉に従うわけではありません。理解したと思って、終わってしまうのです。理解できないからこそ、自分で聖書の言葉を何度も読み、自分には従い得ないと落胆し、どうしたら良いのかと苦悩する。そのような苦悩の中で、神に祈る心が起こされるのです。

ファリサイ派や律法学者は、聖書を理解していると思い込んでいたでしょう。聖書は理解されるために書かれたものではなく、わたしたちに問いを与えるために、神が語っておられる言葉なのです。「あなたはそれで良いのか」と神は常にわたしたちに問うています。このラザロと金持ちのたとえにおいても、イエスはわたしたちが自分自身に問いかけるようにと語ってくださっているのです。あなたは、このたとえをどこで聴くのかと問われているように思います。ラザロの立場なのか。金持ちの立場なのか。または、金持ちの兄弟たちの立場なのか。どれでもありません。ラザロはラザロです。金持ちも金持ちです。兄弟たちも兄弟たちです。彼らを客観的に見ているのがわたしたちです。金持ちがどうにもならなくなっていることを見て、溜飲を下げる。だとすれば、わたしたちは見物人です。ラザロは何も言いません。ラザロは無言です。金持ちだけがしゃべり続けるのです。その無駄口を聞いて、わたしたちは「それじゃあ、ダメでしょ」と思うだけだとすれば、わたしたちも金持ちと同じく他人事の人間なのです。「そうそう、聖書をもっと読まなきゃ」と金持ちに心の中で言うだけです。自分には言わない。それが金持ちと同じ在り方なのだと、わたしたちは自分を省みなければならないのです。貧しい人を助けなきゃとか、貧しい人の無言の言葉に耳を傾けなければと、金持ちに言うだけで、自分には言わないのです。現代の政治家が、人の言葉に耳を傾けると言いながら、何も聞いていないと批判することはできますが、自分はどうかと考えることはないのです。

わたしたちは、この金持ちと何も変わらないのではないでしょうか。死んでからでは遅いのです。今、わたしたちは聖書を開いて、耳を傾けなければならないのです。今、聖書がわたしに向かって語っておられる神の言葉だと聴かなければならないのです。聖書は、わたしのために書かれていると耳を開かなければならないのです。このたとえを語られたイエスは、わたしたちに聴く耳が開かれるようにと語ってくださっているのです。今、聴いて、神に従うようにと、語ってくださっているのです。これほどまでに、わたしたち一人ひとりのために語ってくださるお方がおられるのです。金持ちにもモーセと預言者が与えられていました。それ以上に、わたしたちにはイエスが与えられているのです。耳を傾けて、聴くことによって、信仰が起こされるというルターの言葉のように、わたしたちのうちに神が独占的に働いてくださるのです。聖書を、耳を開いて、心を開いて、聴く者でありますように。

祈ります。

Comments are closed.