「あるかないか」

2022年10月2日(聖霊降臨後第17主日)
ルカによる福音書17章1節~10節

「わたしどもの信仰を増してください」と使徒たちが言ったと記されています。使徒たちでさえも、自分の信仰が少ないと感じていたということでしょうね。それに対して、イエスは「もし、あなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば」とおっしゃっています。つまり、信仰は多い少ないということではなく、小さいとか大きいということでもなく、「あるかないか」だけであるとおっしゃっているのです。「からし種一粒ほどの信仰」と言われると、小さい信仰のように考えてしまいますが、これはたとえですから、信仰はあるかないかだけであって、「からし種一粒ほどであろうとも信仰があるならば」とおっしゃっているのです。だからこそ、信仰があるならば、桑の木に命じても言うことを聞くであろうとおっしゃっているわけです。

わたしたちは、信仰があると思っています。しかし、本当はないのです。イエスがおっしゃるように、桑の木に命じても言うことは聞いてくれないからです。あらあら、それではわたしたちはキリスト者ではないのでしょうか。

躓きは避けられないとおっしゃる言葉も、わたしたちは誰かを躓かせている存在だと言われているのです。悔い改めたのに、赦せないということも、躓かせることだとイエスはおっしゃるのです。たいていの場合、わたしたちは、誰かが謝ってくれば、自分が正しいと思い上がって、さらに責める言葉を語るものです。ごめんなさいと言うと、あなたはこんなところが悪い、あれも悪いと、さらに責めるものですね。だからこそ、イエスは「悔い改めます」と言ってあなたのところに来るならば、赦してやりなさいと言うのです。わたしたちは、赦せない存在だということです。イエスはそれが分かっているのです。だからこそ、赦してやりなさいとおっしゃるのです。わたしたちは、このようなイエスの言葉を聴いているのでしょうか。

それで最後には、取るに足りない僕ですと言いなさいとおっしゃるのでしょうね。この取るに足りないという言葉は、ギリシア語では「役に立つ」、「有益な」という言葉に否定辞が付いた言葉ですから、「無益な」とか「役に立たない」という意味になります。取るに足りないという日本語でも、「足りる」とは価値があるという意味ですから、「取る価値がない」ということですね。ここでイエスがおっしゃっているのは、「役に立つ」ということが如何なることかということです。「命じられたことを果たした」だけでは「役に立たない」のだとイエスはおっしゃっているわけです。命じられたこと以上を行ってこそ、「役に立つ」というわけです。だとすれば、わたしたち人間は皆役に立たない僕なのです。命じられたことさえもできていないからです。

人を赦せない。人を躓かせている。自分では、良いことをしていると思っているのに、他者を傷つけてしまっている。故意に傷つけてはいないと思っていますが、如何なる人であろうとも、誰も傷つけていないと言える人はいません。ヨハネによる福音書8章に出てくる姦淫の現場で捕まった女性の話のように、一度も罪を犯したことがない人がまず彼女に石を投げなさいとイエスがおっしゃると、年寄りから初めて、一人ずつ帰って行ったと言われています。自分の心の奥を探ってみれば、誰一人自分が正しいとは言えないのです。それがわたしたち人間です。「取るに足りない僕」にもなっていない人間です。命じられたことを果たしてもいない人間です。それなのに、他者を赦せない。このような人間が救われるはずがないのです。神の前に、まっすぐに立つことなどできないのです。わたしたちは、役に立たない、無益な僕にさえもなっていない極悪人かもしれません。もちろん、神さまの目から見れば、ですよ。それなのに、わたしたち自身は、自分はかなり良い人間だと思っているのです。

さて、そのような極悪人が、信仰があるならば神の命じたことを行うようになるのでしょうか。そうです。神が命じたことを果たすことができるようになる。それが信仰の働きなのだとイエスはおっしゃっているのです。しかも、自分の成果だと誇らないということでもあるのです。信仰をもって行った人は、「わたしは無益な、役に立たない僕です。命じられたことを果たしただけですから」と自分を誇らないのです。誇る人が、赦せない人であり、躓かせる人であり、信仰が多いとか少ないとか比較する人だということです。本当に信仰がある人は、「あるかないか」だけが大事なことだと分かっているからです。そして、「ある」だけで良いのだと知っているからです。しかも、「信仰がある」ようにしてくださったのは神さまだと知っているのです。だから、自分が信仰によって行ったことを誇ることなどできないのです。神さまが、わたしに信仰を与えてくださり、神さまが命じたことを行う素直さを起こしてくださった。だから、わたしは神さまによって、行わせてもらったのであって、わたしの力でおこなったのではないと、まっすぐに神さまを見るのです。そのような人が信仰ある人なのだとイエスはおっしゃっているのです。

わたしたちは、信仰がある人でしょうか。ない人でしょうか。わたしたちは、ある時もあれば、ない時もあるというものではないでしょうか。礼拝堂で、礼拝しているときには、「アーメン」と言っていますが、うちに帰れば普通の価値観の中で過ごしています。この世で、生活している間は、この世の価値観の中でものを考えています。みことばを聴けば、「ああ、そうではなかった。わたしが間違っていたなあ」と思うけれど、うちに帰ればすっかり忘れてしまう。わたしには信仰があるのかないのかと言えば、あったりなかったりだとしか言えないでしょうね。それでも、たとえ一瞬ではあっても、信仰ある時があるとすれば、そのときには「ある」のです。一瞬は、取るに足りない僕程度になっていることもあるのです。その時間が、5分、10分と長くなって行くならば、そのうちいつでも信仰ある生活ができるようになるかもしれません。だた、神の国が来る時に間に合うでしょうか。間に合わないかもしれませんね。それでも、毎週、みことばを聴き続けている。それだけでも続けることができるようにされているとすれば、少しは良くなっていると言えるかも知れません。ただし、少しは良くなっているとしても、他の人と比較しないことです。

比較した途端に、わたしたちは自分の成果を誇るような、偽物の信仰に支配されてしまうのです。比較することは、成果や信仰の量を量ることだからです。信仰は量ではない。成果を誇るものが信仰ではない。ただ、神さまから与えられている信仰は、比較しようがないのです。いただきものですから、比較するものではないのです。いただきものを比較するとしたら、与えてくださった神さまの恵みを比べているようなことになりますね。神さまの恵みも多いとか少ないと言えないのです。神さまが恵みを与えてくださったと信じているのであれば、他の人に与えられたものと比較してはならないのです。そのような思いが、神さまを蔑ろにする思いなのだということを忘れてはならないのです。

使徒パウロも言うように、賜物にはさまざまあるということです。さまざまな賜物を比較して、優劣を付ける。そのような思想こそが、不信仰な思考なのです。如何なる人も、神さまに愛されている。社会的に認められない人も、神さまに愛されている。いや、認められない人の方が、神さまに愛されていることをより強く受け取っているでしょう。地位があり、権威があり、お金がある人の方が、どれだけ恵みを与えられていても、感謝することができないというようなものです。小さなからし種ほどの信仰では心許ないと神さまに不満を述べてしまうようなものです。使徒パウロがイエス様に不満を述べたとき、こう言われました。「わたしの恵みはあなたに十分である」と。わたしたち一人ひとりは、十分な恵みをいただいて、十分な信仰をいただいているのです。キリストの体と血に与る聖餐においても、パンの大きさや葡萄酒の量によって、恵みが異なるわけではありません。ただ、アーメンといただく信仰のみが正しく受けるのです。感謝して、いただきましょう。

祈ります。

Comments are closed.