「見出された一人」

2022年10月9日(聖霊降臨後第18主日)
ルカによる福音書17章11節〜19節

「10人が清くされたのではないのか。しかし、9人はどこに。」とイエスは言っています。9人はどこに行ったのでしょうか。続けて、イエスはこう言います。「彼らは見出されなかったのか、神に栄光を帰すために引き返すように、この他国人以外に」と言うのです。この他国人、つまりサマリア人以外の9人は、見出されなかったのだとおっしゃっています。誰に見出されなかったのでしょうか。もちろん、神に見出されなかったのです。しかし、この人は、どうして見出されたのでしょうか。他国人だったからでしょうか。彼はサマリア人だから、祭司のところに行くように言われても、エルサレムの祭司のところには行けるはずもないのです。

10人は同じ病によって、社会の外で生きて行かなければなりませんでした。ところが、清くされることによって、社会の中に戻っていくことができるようになったのです。9人はエルサレムに行くことができるでしょう。しかし、サマリア人はエルサレムには行けない。彼は、皆と一緒にイエスの許を離れはしたけれど、道を進むうちに自分がエルサレムに行くことができないことを思い出した。そのとき、彼は自分が清くされていることを「見た」と言われています。そして、彼は引き返したのです、大声で神を讃美して。

彼には一緒に行く仲間もいなくなった。たった一人になって、彼は自分を見たのです。自分とは一体何かと見たのでしょう。そして、神に見出されたのです。たった一人を見出す神については、イエスの百匹の羊のたとえが語っていましたね。そこでは九十九匹が野原に置き去りにされていました。九十九匹は迷い出た一匹を気にも留めなかった。そして、羊飼いが探しに行き、その一匹を見出したのでした。このサマリア人も同じように、神に見出されたのです。取り残され、行くところもない彼が、自分自身が清くされていることを見たとき、彼は神によって発見されたのです。ということは、神によって発見されるのは、自分自身が一人にされ、自分を見るしかなくなるときだと言えますね。仲間がいるうちは自分を見なくても良いということです。仲間であることが、自分を見る機会を奪っているとも言えます。そのような仲間とは一体何でしょうか。仲間であることを守るために、自分を見失ってしまうとしたら、仲間とは一体何でしょうか。

この10人の人たちは、社会から除け者にされる同じ病によって結ばれていました。結ばれていたのは、社会を恨む気持ちかも知れません。恨みが彼らを一つにしていたのでしょう。ところが、その病が取り除かれた途端に、9人は社会に帰っていくのです。自分たちを除け者にしてきた社会に帰っていくのです。結局、彼らは社会に仲間として迎えられるということですね。そして、今まで自分たちを除け者にしてきた側に入っていく。社会を変える存在にはならないでしょう。社会に入れてもらえて喜んでいる9人が、一人の他国人をすっかり忘れてしまうのも頷けます。彼らは、自分自身が社会復帰できることを喜んでいるでしょうが、本当に自分自身を見ているのだろうかと疑問に思います。取り残された一人のサマリア人だけが、自分自身を見たのではないでしょうか。同じ病の仲間を持っている間、彼らも、自分たちを除け者にする社会と同じような社会を、仲間を作る考え方に従っていた。だからこそ、取り残された一人を気に掛ける人は一人もいなかったのです。イエスが「この他国人以外には、見出されなかったのか」とおっしゃっている言葉をよくよく考えてみなければなりません。

わたしたちは一人になって、一人取り残されて、ようやく神を仰ぐのでしょう。みなさんが神に見出されたとき、仲間がいたでしょうか。わたしはたった一人でした。一人だけ社会から外れてしまった自分を見つめなければなりませんでした。そのとき、ある夢を見たのです。夕日に照らされた多摩川の土手の上を整列して歩くスーツ姿の集団がいる。その集団を見上げているわたしは、土手の下に転がり落ちているのです。転がり落ちたところから何とか這い上がろうともがいていました。あの土手の上に上らなければともがいていました。ところが、声が聞こえたのです。「それがあなたの道だ」と。その声が聞こえたとき、わたしが土手の上から転げ落ちた跡が道のように見えて、転がっているわたしの先へとその道が続いていたのです。ああ、そうかと思いました。今までみんなと同じところに行かなければともがいていたけれど、行かなくても良いのだと分かりました。自分の道はここにあったのだ。転がり落ちたのではなく、神様が作っておられた道を転がっていただけなのだと思いました。この道を歩いて行けば良いと思いました。それがキリストに従う道なのだと感じました。

わたしたちは、誰かと同じ道を歩くのではないのです。一人見出された道を歩くのです。その道がキリストの道なのです。その道を作ってくださったのは神様です。だから、何も落胆することはありません。仲間などいなくても生きて行けます。神様がおられれば生きて行けます。神様がわたしの主であると信じる限り、生きて行けます。それがキリスト者の道なのです。

イエスは、このたった一人になったサマリア人に言います。「立ち上がって、旅をしなさい。あなたの信仰があなたを救ってしまっている。」と。新共同訳では「行きなさい」となっていますが、あえて「旅をしなさい」と訳した方が良いように思います。そのような言葉なのです。旅をするということは、一人で行くということです。人生は一人旅です。始まりも一人、終わりも一人です。自分の道を歩いていくということは一人旅をするようなものです。他の人と同じ道を歩いていくのではないのです。他の人と違う自分の道を歩いていくのです。このサマリア人は、これから社会に戻って、除け者にする側になるわけではないのです。たとえサマリアの社会に戻ったとしても、きっと彼は除け者にする側には立たないでしょう。むしろ、イエスと同じように、除け者にされている人たちを支えて、一人で立って行くことができるように支えるでしょう。このような人が、信仰によって救われた人なのです。良い人間関係を殊更強調する社会の中に取り込まれて、自分を見失うことのない人。それがこのサマリア人ではないでしょうか。

だとすれば、この人は本当に救われた人です。神様に見出された一人です。いや、一人の人間として神様に見出された人なのです。神様に見出された人は、仲間に入れてもらえずとも生きて行けるのです。なぜなら、その人を導いているのはたった一人の神だからです。その人もまた、見出してくださった神を知っているからです。だからこそ、彼は引き返してきて、神に栄光を帰したと言われているのです。大声で神の栄光を讃えたのです。見出された一人が見出した一人の神。彼は、神様によって「わたしとあなた」という関係に入れられた人なのです。

わたしたち一人ひとりはキリストのものとして、神によって見出された存在です。見出してくださった神を誉め讃えて生きるようにされた存在です。あなたが自分自身を見出すようにと、神様はあなたを一人になさったかも知れないのです。ここで、イエスが癒すことによって、たった一人になったサマリア人のように。イエスに癒やされなければ、彼は一人になることはなかったのです。イエスに癒やされることで、一人になったとすれば、癒やされなかった方が良かったでしょうか。いえいえ、癒やされて良かったのです。他の9人は自分自身を本当に癒されたと見出したでしょうか。神を讃美できないとすれば、見出していないのです。

あなたが神を讃美するとき、あなたは救われたときのことを思い起こすでしょう。神を讃美するということは一人の人間として生きて行く力を与えられることでもあるのです。キリストもまた十字架の上でたった一人にされました。そのキリストの力に与る者は同じように一人にされるでしょう。神に栄光を帰す者はたった一人なのです。見出された一人のあなたには信仰が与えられています。あなたを救ってくださった信仰のうちに生きて行きましょう。

祈ります。

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