「疲れても祈る」

2022年10月16日(聖霊降臨後第19主日)
ルカによる福音書18章1節〜8節

今日もまた、イエスは良く分からないたとえを語っておられます。「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」と言いながら、最後には「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」と語られています。終わりの日の人の子の来臨のときに、地の上に信仰があるのかどうか誰にも分かりません。イエスが心配しておられるように、地の上にはもはや信仰はないという状態になっているかも知れないのです。この最後の疑問文は、否定的答えを期待する疑問文ですから、「いえ、おっしゃる通り、地の上には信仰を発見することなどできないでしょう」と答えることになるはずです。そうなると、誰も救われないということになるのでしょうか。

今回のたとえでも、不正にまみれた富で友を作れとおっしゃったときと同じように、「不正な裁判官」が出てきます。不正な裁判官などいるのでしょうか。法律家が不正であるならば裁判も不正だということになります。このたとえで言われている「不正」とはどのようなことでしょうか。困っている女性に有利な判決を出そうということのようですが、その理由が社会的弱者であるということで彼女に味方するというわけではありません。むしろ、彼女がしつこくやってきて、自分を酷い目に合わせるだろうから、彼女の求めに応じて、彼女に利益があるような判決を出そうと言っているのです。だからこそ、「不正な裁判官」と言われているわけでしょうね。この裁判官は自分が不利益を被らないために裁判を行うと言っているのですから、義しい裁判とは言えません。イエスは、義しい裁判だとは言っていないのです。人間である裁判官は、自分の都合で義しくない裁判をすると言っているのです。

このような裁判官は、お金をもらって判決を有利にしてやることもするでしょう。通常は、お金持ちに有利な裁判官なのでしょう。ところが、ここで女性に有利な判決を出そうということは、彼女がお金を持っているからではありません。彼女がしつこいからです。貧しい者の対抗手段はしつこさだと、イエスは語っているようです。金持ちたちにとって有利に働いていく社会であろうと、しつこさによって対抗できるということでしょうね。そのしつこさに負ける裁判官は、結局は自分のことしか考えていないというわけです。それを説明する言葉が、最初に語られています。「神を畏れず人を人とも思わない裁判官」という言葉が指しているのは、何ものにも動じないことのようでいて、実は自分のことしか考えていないということですね。自分の利益しか考えていないような裁判官は、貧しい人の対抗手段であるしつこさに負けるというのがたとえの意味になりますね。そして、そのしつこさに負けるような神様のことが語られています。いえ、神様の場合は、しつこさに負けるのではなく、必ず聞いてくださるということです。この必ず聞いてくださる神にしつこく祈ることが信じる者の生き方なのだとイエスはおっしゃっているようです。

神様は、しつこく祈らないと聞いてくれないのだろうかと、思う人もいるでしょう。真剣に祈らないと聞いてくれないとすれば、神様はそんなにケチなのだろうかと思う人もいるかも知れません。一度祈れば、すぐに聞いてくれないのだろうか。何度祈れば聞いてくれるのだろうか。このような思いが次々に湧き上がってきますね。しかし、イエスは即物的な祈りについて語っておられるのではないのです。むしろ、祈りの姿勢について語っておられるのです。祈りというものは、「いつも祈るもの」であること。そして、「疲れたからやめる」とか「いつになったら聞いてくれるか分からないからやめる」とは言えないものだということです。必ず聞いてくださると信じて祈るのですから、信じることに飽きて、疲れてしまうようなものは信仰ではないということです。それが「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」と言われていることなのです。この言葉は「いつも祈ることが必然であること」と原文ではなっていますが、「必然である」ということは「ねばならない」というよりも「必ずそうなる」という意味です。いつも祈るのが信仰者としての必然だということです。祈ればすぐに聞いてくれるのだろうかと考えることや、結果が現れないから祈るのを止めてしまおうとは言えないということが「必然」という言葉が意味していることです。それが信仰者であるとイエスは教えてくださっているのです。

そう考えてみれば、このイエスのたとえはこのような「必然」を生きている人には当たり前のことですね。だとすれば、このような「必然」を生きていない人に向かって、イエスはたとえを語ったということになります。つまりは、「疲れて」祈らなくなる人、いつも祈っていることが生き方になっていない人、そのような人に対して、イエスは語っておられるのです。原文では、「必然」とか「疲れてイヤになることなく」と言われているのですが、祈りの必然の中で疲れることなく祈り続けている人にとっては、それが自然なことなのです。自然である祈り、それが「いつも祈ることが必然である」という祈りでしょう。自然ですから、「疲れてイヤになる」こともありません。頑張って祈るわけではないからです。頑張って祈っている人にとっては、祈りの結果がなかなか現れないとすれば「疲れてイヤになる」でしょう。しかし、祈りは「必然」で楽しいと祈っている人にとっては、いつでも祈ることが自然なのです。自然ですから、その人の祈りは楽しい時間であり、神様との楽しい交流なのです。

また、「必然」である祈りは、改めて時間を作って、祈りの形をしてというような祈りでもありません。マルティン・ルターが言ったことですが、「完全にキリスト者となっている人には、彼自身の礼拝がある。しかし、我々には礼拝式順序が必要なのである。」と。つまり、わたしたちは完全にキリスト者にはなっていないので、礼拝式順序という形に倣って、神の言葉を聴き、祈るということがどのようなことかを身につけて行かなければならないということです。そのために、神が礼拝式を設定してくださったのだとルターは考えていました。このように考えてみれば、祈りはやはり必然的に祈るようになっているものなのです、キリスト者であれば。

不正な裁判官は、地上で自分のためになるように、しつこい相手に有利な裁判を行うものだ。それならば、神は自分のためではないのだから、ご自分に向かって祈り続けている人たちのために何もしないなどということはあり得ないということです。しかも、祈る「必然」を自然に生きるようにして下さったのは、神ご自身なのですから、祈りを聞いてくれないなどということはないのだと、イエスは教えてくださっているのです。イエスもまた、十字架を前にしたあのゲッセマネの園において父なる神に祈りました。「わたしの意志ではなく、あなたの意志が生じますように」と。このイエスと一つとされる聖餐に与る者は、必ずイエスと同じ祈りの霊に満たされるのです。そして、父なる神との祈りの生活を必然的に生きるのです。イエスの祈りが聞き届けられたように、わたしたちのいのちとなった祈りは必ず聞き届けられます。

たとえ、わたしたちが祈りに疲れてしまったとしても、わたしたちのうちに生きておられる主イエスがおられます。終わりの日に、地の上に信仰を見出されないとしても、キリストがうちに生きておられるわたしたちキリスト者にはキリストの信仰があるのです。神はこの信仰を見出して、救い出してくださいます。主イエス・キリストの体と血に与って、キリストに生きていただきましょう。あなたは神から信仰を与えられ、祈りが必然となるようにと招かれた存在なのです。祈ることが楽しいと思えるように、召された存在なのです。祈りのときは楽しいとき。祈りのときは自然なとき。時間を決めなくても、祈ることができる祈り。そのような祈りの霊を与えられているわたしたちなのです。しつこく祈るというよりも、いつも祈らないではいられないように祈ること。それでも疲れたとき、わたしのうちで祈り続けてくださるお方が生きておられる。ここに、わたしたちの救いがあるのです。

祈ります。

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