「罪人のわたしに」

2022年10月23日(聖霊降臨後第20主日)
ルカによる福音書18章9節〜14節

「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。」と記されています。この「もう一人」という言葉の原文はヘテロスというギリシア語で「別の」という意味もありますが、「異質な」という意味の言葉です。「他の人」という意味で使う言葉は他にあります。アッロスという言葉です。ここでヘテロスが使われていますので、徴税人は「異質な存在」だという意味で理解すべきでしょう。ローマの手先となって、ユダヤ人民衆からローマへの税金を徴収する人が徴税人ですから、そんなローマの手先が「神殿」という聖なる領域に来て、祈るなどということは「異質な」ことであるとルカは暗示しているのでしょう。

この異質な人、皆に嫌われている人が、祈る祈りはファリサイ派の人の祈りのように心の中で祈ったのかどうか分かりません。徴税人はみんなの前で、声を出して祈ったのかも知れません。ファリサイ派の人が「心の中で」祈ったと述べられている言葉は、実は「自分に向かって」という言葉です。つまり、神に向かって祈っている形はしているけれども、彼は自分に向かって祈っているということです。この表現は、徴税人は神に向かって祈っているということをも暗示していると言えるでしょうね。そう考えると、「心の中で祈った」ファリサイ派の人は、皆に聞かれては困ると思っていたことになります。しかし、徴税人は自分自身の罪深さを認めながら祈っていますので、声に出そうと出すまいと頓着しなかったでしょう。彼の心からの祈りであるならば、思わず声に出して祈ったとしても不思議ではありません。そのような徴税人の姿とは正反対の立場がファリサイ派の人の「自分自身に向かって祈る」という立場です。

確かに、ファリサイ派の祈りの言葉は、自分を褒めている言葉ですね。「自分を褒めて上げたい」と言う人がいますが、そのような人は大抵他者との比較に生きています。このファリサイ派の人も同じですね。他人と比較して、俺は良い線行ってるぞと思う。この徴税人のようではないことを神に感謝すると言っていますが、彼が感謝しているのは自分が人々に自慢できることです。自分が自慢できないことは感謝の対象にはならないということですね。そこにわたしたち人間の問題があります。

ルカが最初に書いている「うぬぼれて」という言葉は、「自分自身の上に信頼している」という言葉です。ファリサイ派は自分に信頼しているのです。神に信頼しているのではないのです。「自分を誉めてあげたい」ということを言う人も自分自身の上に信頼しているのでしょう。それは自分を信頼しているということです。神を信頼しているのではない。わたしはこれだけやっていて、偉いと自分の力を信頼しているということですね。このような人が祈るとしても、このファリサイ派の人のように「こんな素晴らしいわたしであることを感謝します」という祈りでしかないとイエスはおっしゃっているのです。神を信頼しているのではないからです。

さて、わたしたちが、このイエスのたとえを聞いて、自分は徴税人だと思うとしたら、その人はファリサイ派と同じところに立っていることになります。なぜなら、ここで誉められている徴税人と自分とを同じだと思っているからです。つまり、罪を告白するわたしは神の前に立っている素晴らしいわたしだと思うということです。重要なことは、わたしたちは神の前に立っているのか、自分に向かって立っているのか、ということです。

このたとえの最後で、イエスがおっしゃる言葉にも語られています。「自分を高くする者は低くされる。しかし、自分を低くする者は高くされる」と。わたしが自分を低くする者だと思うとすれば、結局自分を高くしているのです。反対に、わたしが自分を高くする者だと思うとすれば、わたしは自分を低くしているということになります。と、ここまで聞くと、またまたわたしたちは比較の領域に入り込みますね。高くするのが悪いのであれば、低くすれば良いのだろうと思う。でも、自分を低くすることが高くされるという言葉を聞いてしまっていますから、わたしは高くされると思い上がることになります。だって、わたしは自分を低くしているから、と思うからです。イエスがおっしゃっている言葉の真意は、「高くされる」と「低くされる」という言葉が受動態であるという点にあります。

受動態であるということは、わたしは神さまによって「高くされる」、あるいは「低くされる」ことを受け入れるということです。主体はあくまで神さまの行動です。神さまがわたしを高くなさるのであって、わたしは高くなろうとは思わないということです。神さまがわたしを低くなさるのであれば、そのことさえも受け入れて、低くされるままに生きる。これが最後のイエスの言葉が語っていることでしょう。そうであれば、わたしたちはこの言葉に惑わされてはならないのです。もちろん、イエスの言葉がわたしたちを惑わすのではありません。わたしが「自分に信頼している」ということがわたしを惑わすのです。神さまが、このように謙虚に自分の罪を告白する者を顧みてくださるのだとイエスが言うから、わたしは罪を告白しようと思う。そうすれば、神さまがわたしを高くしてくださると信じる。これが問題なのです。高くすることも、低くすることも、あくまで神さまのご意志です。ですから、わたしがこうすれば、神さまがそのようにしてくださるということではないのです。神さまは、わたしたちの心の奥底をご覧になっていますから、わたしが心の奥で考えていることなどお見通しなのです。ただ、神に委ねているかどうか、それだけが問題なのです。

ここで、徴税人は、すべての判断を神に委ねています。自分がこんなに謙虚ですと、神の前に自分の功績のように差し出してはいないのです。徴税人はこう祈っています。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と。この言葉は「罪人のわたしに憐れみを与えてください」という意味です。憐れみを与えてくださいと祈っていますが、与えるご意志は神にあることを知っている祈りです。与えられる保証はない。しかし、祈る。あくまで、神さまのご意志が優先される。それが祈りです。ただ、わたしは神さまの憐れみに信頼していますと祈るのです。これが徴税人の祈りでしょう。それが「自分を低くする者」なのです。

自分の謙虚さを人に見せることが「自分を低くする」ことではありません。むしろ、そのようにして「自分を高くする」のが人間なのです。「自分を高くする」という言葉が指し示しているのは、自分に信頼する心や人前に自分の善さを示そうとする心です。反対に、徴税人のように、自分を誇ることができないと、神さまに向かって立ち、うな垂れている魂の姿。それが「自分を低くする」者なのです。わたしたちはこのどちらかと比較する必要はありません。誰かに見せる必要もありません。ただ、神の憐れみに信頼して、神に向かって立つ。それだけで良いのです。そのような人である徴税人が「義とされた」と言われているのです。つまり、義しい者だと神さまに認められたということです。神に向かって立ち、自分を低くする者が義しい人だということです。反対に、自分に向かって立ち、自分を高くする者は義しくないということですね。イエスの最後の言葉は、神に向かう在り方を語っているのです。

わたしたちが礼拝堂で祈るとき、一人ひとりが神に向かって立つわけですが、その祈りのときに神の前に自分を低くして祈っているかどうかが問われていると言えます。口には出さなくても、神に向かって、自分を低くして立っているのか。自分に向かって、自分を高くして立っているのか。形は同じであろうとも、その人の魂は違うということです。それが今日、イエスがたとえを通して見せてくださっているわたしたち一人ひとりの魂の姿です。二つの姿のどちらであるかは、祈るわたしが知っているはずです。そして、神さまもご存知です。このお方に向かって立ち、祈るわたしでありますように。神さまのご意志にすべてを委ねて、「罪人のわたしに」憐れみを与えてくださいと祈る者でありますように。神は必ず憐れみを与えてくださいます。

祈ります。

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