「一人ひとりの神」

2022年11月13日(聖霊降臨後第23主日)
ルカによる福音書 20章27節~40節

「死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。」とイエスは言っています。ここでイエスが言う「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という言い方は、イスラエルの歴史の中で受け継がれてきた神の呼び方です。アブラハムに現れ、イサクに現れ、ヤコブに現れた神ヤーウェのご意志をモーセが受け継いで、イスラエルの民をエジプトの苦しみから解放しました。出エジプトという出来事をモーセを通して実現した神ヤーウェはモーセに現れましたが、モーセの神とは呼ばれません。イスラエルの最初の三代の先祖たちに現れた神が、イスラエルの神なのです。それは、最後のヤコブが「イスラエル」という名に変えられたからです。天使と格闘したヤコブに、天使は「イスラエル」という名を与えました。それ以来、ヤコブの子孫たちはイスラエルと呼ばれてきたのです。現在のイスラエルという国の名と同じ呼び名ですが、イスラエルというのは国の名ではありません。ヤコブに与えられた時には、ヤコブが神と人間と共に戦い、勝利したからであると神は言っています。つまり、ヤコブの名は国の名前ではないだけではなく、ヤコブが自分を造った神と自分自身と格闘して自分を取り戻した姿を表す名前だったのです。最後のヤコブだけではなく、ヤコブに至るまでのアブラハムとイサクも神に従い、それまでの自分自身と格闘して生きた人たちなのです。それぞれに、神は共にいて、彼らを支え、守り導きました。それで、一人ひとりが神と、そして人間である自分や周りの者たちと格闘する生き方を通して、自分を生きるのであって、誰かのために使われてしまう存在ではないと、イエスはおっしゃっているのです。

ここでサドカイ派の人が復活のおかしさをたとえで語っていますが、イエスの答えを聞けば、復活という出来事が何であるかが分かります。「すべての人は、神によって生きているからである。」とイエスは言っています。つまり、復活が何を意味しているかと言えば、すべての人が自分で生きているのではなく、神によって生きているということが復活の意味なのだとおっしゃっているわけです。そして、「すべての人」とは一人ひとりのことであって、イスラエルという名前のように一括りにされた集団や国家のことではないということです。神によって生きている一人ひとりが神に信頼して生きること。それが復活だとイエスはおっしゃっているのです。

ここで面白いのは、サドカイ派の人が言うレビラト婚という制度です。この制度は、説明されているように、子供をもうけることなく、男が死んだ場合、その人と結婚していた女性は、同じ種を持っていると考えられる弟と再婚して、その種を産まなければならないという制度です。新共同訳で「兄の跡継ぎをもうけねばならない」と訳されている言葉の原文は、「彼の兄に、種を復活する」となっています。つまり、弟は自分の兄のために、その種を復活するようにしなければならないということです。ここで使われているエクスアナスタシスという言葉は、復活という意味があります。サドカイ派の人は、これも分かっていて、イエスに問うています。ここで最初の兄の妻は、復活のための道具のようなものになっています。それで、全員が終わりの日に復活するのであれば、誰の妻になるのかというサドカイ派の人の問いかけは、誰の種を復活させる必要があるのかということを問うていることになります。つまり、終わりの日にすべての人が復活するのであれば、生きている間に、種を復活させる必要などないではないかということなのです。「誰の妻になるのか」というのは、「7人のうちの誰の種を復活させるための女性になるのか」という意味になります。皆が復活するのであれば、女性の役割は必要ないことになります。復活のためだけに女性が存在しているのであれば、全員が復活するのですから、地上で生きている間に女性が兄の種の復活のために使われる必要もないし、女性自身の存在も無駄だということも、このサドカイ派の人は述べているわけです。

イエスは、その問いかけに対して、女性には言及せず、「すべての人は、神によって生きているからである。」と答えています。このイエスの答えは、男性であろうと女性であろうと、「すべての人は、神によって生きている」と述べていると言えます。つまりは、神は一人ひとりの神なのだと、イエスはおっしゃっているのです。それが「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という神の呼び名の意味だということです。一括りに「アブラハム、イサク、ヤコブの神」とは言わず、それぞれの名前と神が結びついています。出エジプト記の3章においても同じです。一人ひとりの名前に結びついた神。そのお方が神であり、一人ひとりを生かしているお方であるということです。そして、すべての人は、同じ神によって生きているのだとイエスはおっしゃっているわけです。このような意味で語られている一人ひとりの神であるお方は、イエス・キリストの父なる神なのです。それゆえに、わたしたちもまた、わたしの神と共に生きることができるのです。

マルティン・ブーバーというユダヤ人の聖書学者は「我と汝」、つまり「わたしとあなた」という本を書きました。神様との関係である信仰とは、「わたしとあなた」という関係に入ることなのだと言うのです。また、古代の神学者の中で最も有名なアウグスティヌスはこのように言っています。「汝は我を汝に向けて造り給うた。それゆえ、我は汝のうちに憩うまで平安を得ないのである」と。

信仰という出来事は、神とわたしが密接な「あなたとわたし」の関係に入ることです。この神に対する信仰の姿は、旧約聖書の時代から変わりなく、一人ひとりに向き合ってくださるのが神だと述べているのです。イエス・キリストも「我が神、我が神」と十字架の上で叫びました。それぞれにわたしの神と呼びかけるのが祈りです。ヨハネによる福音書のご復活の際に、一緒にいなかったトマスも、一週間後に現れてくださった主イエスを見て、言います。「わたしの主、わたしの神」と。我と汝、わたしとあなたの関係に入ることこそが、わたしたち信仰者の喜びの源泉なのです。わたしはひとりではないと喜ぶ。わたしは見捨てられてはいないと喜ぶ。わたしのためにわざわざ現れてくださったと喜ぶ。それは、神ご自身がわたしに向き合ってくださったからです。

モーセが神ヤーウェに出会ったときも、彼は誤ってエジプト人の奴隷を殺害して、逃亡中でした。逃亡中に、出会った女性を助けて、結婚したのですが、彼はずっと自分の殺人に悩んでいました。そのようなモーセに、神ヤーウェは現れ、モーセをご自分の下僕とするのです。モーセは、神と出会い、親しく言葉を交わすことになり、神の使者の役割を生きることになりました。モーセに現れた神がご自分の呼び名をモーセに教えた言葉を、イエスがここで持ち出して、復活を論じているのです。それは、モーセを生かした神は、アブラハムの神としてアブラハムを生かし、イサクの神としてイサクを生かし、ヤコブの神としてヤコブを生かした一人ひとりの神なのだと、イエスはおっしゃっているのです。一人ひとりの神として、彼らを生かし、導いたお方が、すべての人を生かしている。このお方との関係に入ることで、復活を生きるのだから、誰かの種の復活のために生きるのではないということです。ここでは、女性に言及してはいなくても、当然この女性の神でもあるとイエスはおっしゃっているのです。

わたしたちは、アブラハム、イサク、ヤコブがそれぞれに自分自身を生きる旅を共に歩んでくださった神を信じています。そして、そのお方が、このわたしの自分自身を生きる旅にも同伴してくださっていると信じています。そのお方は、主イエスの十字架の上でも共にいてくださった神であると、わたしたちは信じています。主イエスの父なる神が、このわたしの神なのです。わたしの神は主イエスの父なる神。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。一人ひとりを生かしてくださる神。このお方を信じ、自分自身を喜び生きていきましょう。あなたの神はあなたの人生を共に歩いてくださいます。

祈ります。

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