「魂を守るもの」

2022年11月20日(聖霊降臨後最終主日)
ルカによる福音書21章5節〜19節

「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」とイエスは最後におっしゃっています。この言葉の原文は「あなたたちの忍耐のうちで、あなたたちは保持しなさい、あなたたちの魂たちを」となっています。「忍耐」するということで得られるものがあるとすれば、今まで持っていなかったものではなく、今まで持っていたものです。神さまから与えられていたものを失わないということが「忍耐」の結果、起こると考えるべきでしょう。

新共同訳で「命」と訳されていますが、この言葉はプシュケーというギリシア語です。通常は「魂」と訳される言葉なのです。それが「命」と訳されるわけを理解するためには、わたしたちの「魂」というものが何を指しているかを理解する必要があります。日本語で「命」という言葉は、わたしたちの最も大切なものを指すときにも使われます。「この子はわたしの命」と言う場合、「この子はわたしの命のように大切な存在」と言っているわけです。最も大切なものである「命」に準えている表現ですね。ということは、イエスがおっしゃる「魂」を自分の大切な「命」と訳しているのだと理解すべきでしょう。ここで「命」と訳されていますが、原文通りであれば「魂」です。この魂というギリシア語はヘブライ語のネフェシュの訳語なのです。ということは、ヘブライ語のネフェシュが何を指しているかを理解する必要があります。

ヘブライ語のネフェシュは日本語で「魂」と訳されますが、この言葉は「その人自身」を表す言葉です。さらに、この言葉は「息」や「喉」を表すものでもありますので、息をする存在を生かしている「息」を通す「喉」が生命の中心であるという理解があるわけです。また、神ヤーウェが人間を創造したときに、鼻に命の息を吹き込みましたので、この息が「命」を指すことにもなったのです。そこから考えてみますと、イエスがおっしゃっている「命」とは「その人の魂」であり、命の息によって生かされているその人自身を表していることになります。

さて、わたしたち人間は、自分の魂である自分自身をどのように捉えているでしょうか。あなたがあなたであるのは、あなたの魂が造られたままに現れているときです。わたし自身はどこにあるでしょうか。わたしの鼻か喉か。わたしの心臓か。わたしの脳か。しかし、これらは身体の部分です。これらはわたし自身ではありません。身体は朽ちていくものですから、わたしの身体が朽ちたとしても朽ちないものこそ、わたし自身なのです。もちろん、身体もわたし自身ではあるのですが、それは朽ちるものだと言えます。

神殿の石の壮麗さを語った人たちにイエスが言う言葉は、いかに壮麗な素晴らしい石や建物であろうとも朽ちるものであるということです。それと同じように、わたしの身体もいかに素晴らしい形をしていようとも、いずれ朽ちていくものです。そして、外面的な美しさがあったとしても、その人の魂が汚れているならば、人間は騙せても、神さまを騙すことなどできないということです。イエスは、そのような意味で、「あなたの魂を保持しなさい」とおっしゃっているのです。

わたしの魂であるわたし自身を造ったのは神さまです。その魂はもちろん身体を与えられて、その身体も神さまが造ってくださったのです。ですから、身体を大切に使うことは神さまが造ってくださったものを大切に使うということです。しかし、その身体はわたし自身ではないのです。ここが大事なところです。みなさんには分かり難いかも知れませんが、聖書が語っているわたし自身は、身体も含みますが、その中心である魂のことなのです。ヘブライ語でネフェシュのことです。わたし自身は、命の息を吹き入れられた存在です。創世記では、神さまが土の塵で作っただけではただの土の塊だったのですが、命の息を吹き入れたとき「生ける魂」、つまり「生きているネフェシュ」となったと記されています。命の息がわたしの魂ネフェシュなのです。

このネフェシュを保持するためには「忍耐において」とイエスが言うように、「忍耐する」必要があるわけですが、この言葉は「何かの下に留まる」という言葉ですので、忍耐と言っても「我慢する」というのとは違います。あるものの下に留まり続けること、それが「忍耐」なのです。何の下に留まり続けるのかと言えば、神さまの下です。神さまがわたしを造り、支配しておられることの下に留まるということです。神さまが支配しておられるということを信頼して、神さまの下に留まり続ける。それが「忍耐」なのです。もちろん、神さまが置かれたところはわたしに快適な場所だとは言えないかも知れません。むしろ、わたしたちが逃げ出したくなるような場所かも知れません。到底できそうにないと思えることもあるでしょう。どこまで留まり続けることができるかは分かりません。身体を壊してしまうこともあるでしょう。それは誰にも分かりません。ただ、神さまだけがそのような魂をご存知だということです。だからこそ、主はご自分の下に留まる「忍耐」を語るのです。

11月15日に天に召された浅井兄弟は、最後まで神さまの下に留まりました。痛みを与えられても、神さまの下に留まり、「ありがとう」という言葉を繰り返しました。身体が苦痛を感じるとき、わたしたちは逃げ出したくなります。苦しみに耐えているのに、周りは何も考えてくれない。それは当たり前です。自分のことではないからです。弟子たちが迫害を受けていても、周りは自分のことではないので、気にも留めていなかったでしょう。そして、自分に迫害が及ばないように離れて行ったことでしょう。そのような弟子たちが神から離れてしまわないようにと、イエスは語ってくださいました。「あなたたちの忍耐のうちで、あなたたちは保持しなさい、あなたたちの魂たちを」と。わたしの魂を保持するということは、わたしが「命」のように考えている天における「宝」を保持することです。その「宝」は神さまであり、イエス・キリストです。

わたしたちが保持すべきは、わたし自身である「魂」だとイエスはおっしゃいます。とにかく「魂」が大事なのです。神さまが命の息を吹き入れて、生ける魂とされたわたしを守るのは、神さまの創造の下に留まる「忍耐のうち」なのです。神さまの力の下に留まる「忍耐」の中で、わたしたちは創り主を知ることができるのです。創り主の力に包まれるのです。

このような「忍耐」は信仰の働きです。神さまの下に留まることによって、神さまがわたしに与えた信仰が働くでしょう。そして、わたしの魂が信仰によって保たれるでしょう。神さまが造ってくださった原初の魂が保たれるでしょう。人間的な思惑に汚されることなく、まっすぐに神さまに向かう魂として保たれるでしょう。それが「忍耐」の結果、現れてくるわたし自身の魂だとイエスはおっしゃっているのです。

浅井敬兄弟が、最後のときまで痛みに耐え続けたとは言っても、彼がそこから逃げ出すことはできなかったのです。身体は動きませんし、言葉によって訴えることもできなかった。ただ、神さまが置かれたところに留まるしかなかった。そのとき、浅井兄弟が何を感じ、何を考えておられたかは分かりません。ただ、一つ分かっているのは、彼の叫びは神さまに聞こえていたということです。魂の叫びは神さまとの間で確かに聞こえる叫びです。その叫び声を上げることができるお方を持っていることこそが、浅井兄弟の幸いでした。そして、最後には「ありがとう」と言って、神さまに栄光を帰したことだと思います。

神さまの下に留まる「忍耐」は、そのように自分ではどうにも仕様のないことを引き受けて生きることでしょうね。神さまがここに置かれたのだと神のご配慮に信頼することでしょう。そのように「忍耐」する力はわたしからは生まれません。神さまが与えてくださるのです。信仰と同じく、神さまがわたしの魂を守るために、与えてくださる「忍耐」の力があるのです。わたしたちもまた、イエスに招かれた者として、この力を信じて、歩んで行きましょう。

祈りましょう。

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