「見出されるために」

2022年11月27日(待降節第1主日)
マタイによる福音書21章1節〜11節

「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。」とイエスは弟子たちに言います。「見つかる」という言葉は「発見する」という言葉で、ギリシア語ではユーリスコーと言います。「発見する」ということは、そこにあるから発見するのですが、ろばや子ろばをわざわざ「発見する」などとどうして言うのでしょうか。見れば、そこにいることが分かるのに、「発見する」と普通は言いませんね。しかし、イエスはあえて「発見する」とおっしゃっているのです。「あるものをある」と認識するということは、信仰の事柄だからです。さらに言えば、わたしたち人間が発見する前に、神がそこに置いておられるのです。誰も気づいてはいませんが、最初からそこに存在しているのです。ただ、「ろばがいる」とか「子ろばがいる」ということは見えてはいます。しかし、気にも留めていないのです。ところが、イエスが「あなたがたは発見する」とおっしゃる言葉を聞いている弟子たちは、「あ、イエスがおっしゃった通りだ」と発見するのです。この「発見」は、誰にでも見えているのですが、誰も「発見した」とは思わないわけです。イエスの言葉を聞いた弟子たちだけが「主がおっしゃった通りに、ろばと子ろばがいた」と発見するのです。つまり、イエスの言葉を聞いていることによって、「発見」がその人のものとなるわけですね。前からそこに存在しているのに、誰も気づいていないのに、主イエスの言葉を聞いている弟子たちだけが「発見」するのです。イエスの言葉とろばや子ろばの存在が一致するのです。これを「発見する」とイエスはおっしゃっています。この発見の出来事が、今日の日課の出来事すべてに反映しています。

「主がお入り用なのです」という言葉も、ろばの主人であるイエスが必要を持っているから、弟子たちは発見します。主イエスがろばと子ろばを必要としているからこそ、弟子たちは発見するのです。必要な存在として、ろばも子ろばもそこに存在しているのです。そして、発見する人は、発見するようにイエスが語りかけた弟子たちです。発見するようにされている人が発見するということですね。弟子たちは、イエスによって、発見するように備えられたのです。イエスの言葉によって、彼らは「発見する」ことを使命として心に刻まれたわけです。これが「発見する」ことであるならば、同じようにイエスを讃美で迎える人たちも、神が備えた人たちだということになります。ただし、彼らがイエスを「預言者イエス」とエルサレムの人々に答える言葉は、人間的な考えに戻っています。

「預言者イエス」という言い方は、さまざまな不思議なことを行なってきたイエスを神の言葉を伝える預言者的な人間だと判断している言葉です。イエスの言葉に力を感じているのだとも言えます。また、彼ら群衆にとっては、最初の讃美は神が彼らのうちに与えた讃美でしょう。その讃美を与えてくださった神に従うのではなく、彼らの判断によって「預言者イエス」だと答える段階で、神が与えてくださったお方を自分たち人間のレベルに引きおろしていると言えるでしょう。与えられた心に従うことなく、自分たちの考えに従って、イエスを判断することになっているからです。この時点で、群衆はイエスを義しく認識することから離れてしまいました。

一方で、弟子たちはそのようにイエスを讃美している群衆を見て、誇らしく思ったことでしょう。この群衆が、結局は人間的レベルでイエスを判断することになる結末を予想することはできなかったのです。弟子たちは、自分たちが発見することになったろばと子ろばも、イエスが神の備えによって備えたろばたちであるとは思いも及ばなかったでしょう。彼ら弟子たちもまた、人間的にイエスを見ていたと言えます。それでもなお、イエスの言葉の力を受けて、彼らはろばと子ろばを「発見した」のです。そして、イエスのエルサレム入城を準備したのです。人間的な弟子たちであろうとも、イエスの言葉に従う「発見」によって、神に用いられたと言えます。もちろん、群衆の讃美も用いられました。

「主がお入り用なのです」という言葉が、「彼らの主が必要を持っている」という意味であることは先に見ましたが、この言葉が指し示しているのは、必要としている主がろばと子ろばを備えて、発見させたということですね。弟子たちは、「発見した」ときには、自分たちが見つけたと思ったでしょう。ところが、神が備えていることがあって初めて、彼らは「発見した」のです。さらに、発見したのは、彼らの目が開かれていたからです。「ろばと子ろば」の存在について聞いていた彼らの魂が「ろばと子ろば」に向かって開かれていたからです。この開く出来事を起こしたのは、主イエスの言葉です。主イエスの言葉が弟子たちの魂を開いたとすれば、弟子たちの魂はあるものをあると「発見する」ように導かれたわけです。「発見する」ということは、何もないところに見出すことではないからです。

そこにあるのに、あるとは誰も認識しなかったことを、ある人が「発見する」のです。その認識に開かれた人が「発見する」のです。今までも、そこにあったのに誰も気づかなかったものを「発見する」のです。これが信仰の働きであるとすれば、ルターが言うように、信仰とは、わたしたちのうちにおける神の働きなのです。

神さまのお働きがあって、この世界は創造され、維持され、導かれています。たとえ、人間的な思いである罪が支配しているように思えても、なお神さまのご意志がすべてを支配しておられるのです。これが、主イエスが語り続けたことであり、聖書が語っていることです。この世界の創造者である神、この世界を保っておられる神、この世界の導き手である神が、この世界の中で働いてくださっています。それなのに、人間は神さまを見ることはないのです。すべての人が神さまに造られた存在であるにも関わらず、誰も認識していないのです。認識しているのは、神さまの言葉を聞かされているわたしたちです。神の言葉を聞いていなければ、神さまの存在も力も認めることができないのです。また、神さまの言葉を聞く耳を開かれていなければ、誰も神さまが働いておられるとは認めることができないのです。では、その認識を与えられるのはどのような人なのでしょうか。神さまの言葉を聞かされている人とはどのような人なのでしょうか。どのような人になれば、神さまの言葉を聞くことができるのでしょうか。

人間が自分で聞くようになるわけではありません。神の言葉が語られたとき、素直に耳を開かれる人と耳を閉じてしまう人に分かれます。それは人間がこうすれば必ずそうなるというような出来事ではないのです。それで、使徒パウロは信仰者を「選ばれた人たち」と呼ぶのです。もちろん、神に選ばれた人たちという意味です。また、ヨハネ福音書では「父に引き寄せられた人たち」という表現もあります。ヨハネ福音書では主イエスは弟子たちを「わたしがあなたがたを選んだ」と言います。あくまで、神が選び、引き寄せる働きを受け取るだけの人たち。それが信仰者なのです。そうであれば、わたしたちは自分がキリスト者であることを自分の成果のように誇ることはできません。ルターが言うように、神の働きに与っている存在なのです。

このような存在が、今日の弟子たちです。彼らは、イエスの言葉によって魂を開かれた存在です。わたしたちもまた、主イエスの言葉によって、主に従って行きたいと思いを起こされた一人です。わたしたちは、主イエスを発見した存在なのです。もちろん、主イエスがみことばをもってわたしたちの魂を開いてくださったからです。ご自分が「見出されるために」、わたしたちの魂を開いてくださったのです。わたしたちが「主を見出した」と思うでしょうが、主は「見出されるために」わたしたちの魂を開いてくださったのです。だから、わたしたちは主イエスを見出し、信じる者として生きるようにされたのです。エルサレムに入城される主イエスは、わたしたちの魂に入城してくださった。このお方を喜び迎えるクリスマスに向けて、開かれた魂を持って生きて行きましょう。

祈ります。

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