「相応しい実」

2022年12月4日(待降節第2主日)
マタイによる福音書3章1節~12節

「悔い改めにふさわしい実を結べ」と洗礼者ヨハネは言います。ファリサイ派やサドカイ派の人々は、ヨハネを良く思っていなかったと思われますので、洗礼を受けに来た振りをして、ヨハネを告発する機会を狙っていたのかもしれません。ヨハネは彼らのことを「まむしの子ら」と言っていますね。これは、美しい模様で人を騙し、猛毒で死に至らしめる人間たちだという意味です。ファリサイ派やサドカイ派の人たちは、清潔な服装をしていたようで、見た目はとても美しい。行っていることも儀礼に従って、規則正しく行う。この人たちを見習っていれば、間違うことはないし、律法を破ることもないというように思われた人たちです。見た目は美しいのですが、彼らは毒をもって人を死に至らしめるような人間たちだと洗礼者ヨハネは言うのです。どうしてでしょうか。洗礼者のところに洗礼を受けに来たことも、彼らは自分たちが義しく、良い人間であることを人々に見せるためであろうと、ヨハネは見ているのです。だからこそ、「悔い改めにふさわしい実を結べ」とヨハネは彼らに言うのです。

ファリサイ派やサドカイ派の人たちが正しく儀礼を行い、見た目も清潔なので、人々は彼らの外見の行いを見習います。さらに、ヨハネが求める「悔い改めにふさわしい実」というものも、同じく見えるもののように思えます。見えるものならば、彼らは得意でしょう。いかにも「わたしは悔い改めています」という姿を人々に見せることも、彼らには朝飯前です。そのような人たちに向かって「悔い改めにふさわしい実を結べ」と言っても、彼らは「そんなことはとても簡単」と心で思い、行うでしょう。洗礼者ヨハネが求めていることとは違っていたとしても、人々は外見で判断し、「素晴らしい悔い改めの実」だと思うでしょう。そして、彼らのまねをして、自分も悔い改めている姿を見せる人が増えていくでしょう。洗礼者ヨハネは、そうなることは承知しています。その上で「悔い改めにふさわしい実を結べ」と言うのです。ですから、ファリサイ派やサドカイ派が行うであろうと思われる「悔い改めの実」ではないことは明らかですね。では、洗礼者ヨハネが言う「悔い改めに相応しい実」とはいったいどのような実なのでしょうか。

洗礼者ヨハネは彼らに言います。「斧はすでに木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」と。「良い実を結べ」と言っているように思えます。ところが、その言葉に続いてこう言います。「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。」と言い、「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と言っています。つまり、水によるヨハネの洗礼は「悔い改めに導くため」のものであって、本当の「悔い改め」は「わたしの後から来る方」によって与えられるとヨハネは言っているのです。そのお方は主イエス・キリストです。ということは、洗礼者ヨハネは「悔い改め」という方向への導きはできても、「悔い改めさせる」力は無いと言っているわけです。それはつまり、人間が人間を悔い改めさせることはできないという意味です。そうすると、ヨハネの後から来る方は、人間では無いということです。神の息子であるイエス・キリストが「聖霊と火で洗礼を授ける」ことに与るならば、人間の力ではなく、神の力によってわたしたちは「悔い改める」ようにされるということです。「悔い改め」はわたしたちが行うのではなく、神がわたしたちに行わせる出来事になります。

そうだとすると、「悔い改めに相応しい実」というものも、わたしたち人間が結ぶ実ではないということになります。なぜなら、わたしたち人間は「良い実を結ばない木」だからです。見た目は美しくても、毒を振りまくまむしだからです。見た目に惑わされてはならないということです。わたしたち人間は、見た目だけではなく、心さえも美しいのだと見せかけることがあります。いえ、誰でもわたしは美しい心を持っていると思うのです。そして、人にもそのように見せるのです。心など誰も見ることはできないのに、わたしは一度も人の悪口を言ったことはないとか、わたしは一度も人を傷つけたことはないと言ってしまうのです。それが口に出したことはないという意味であることは、自分の魂が知っているのに、言ってしまう。これが、わたしたち人間の罪であり、わたしたちの哀れさです。このようなところから、わたしたちを救い出してくださるのはいったい誰なのでしょうか。

使徒パウロも、自分の哀れさを嘆いています。ローマの信徒への手紙7章において、パウロは神の律法を喜んでいるにも関わらず、神の律法に従って善をなそうとする自分の内側に悪が付きまとっていると言います。善を行うときにも、悪になってしまうという自分自身の哀れさに嘆いて言うのです。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」と。その次の瞬間、パウロの言葉は感謝に転換します。「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」といきなり感謝に転換するのです。今の今まで、自らを救いようがないと、哀れさを嘆いていた魂が「感謝する者」となるのです。自分自身では救いようのない自分を救ってくださるお方を知ったからです。わたしの外から救いはやって来ると知ったからです。わたしが変わりようがない罪深い者だと分かっている。しかし、神はこのような者を救い給うのだと知ったからです。人間は救いようがない存在です。救い難い存在です。「変わる。変わる。」と口では言うけれど、変わりようがない哀れな存在が人間です。ところが、神はそのような存在を救い給うお方です。洗礼者ヨハネが言う「わたしよりも優れた方」とは、この救いの君、主イエス・キリストのことなのです。

そうであれば、ヨハネが言う「悔い改めに相応しい実」とは、わたしたち人間が結べるものではない実だと言えます。わたしたちは「良い実を結ばない木」であり、斧が根元に置かれている木なのです。もうすぐ切り倒されるであろう木なのです。刑の執行が決まっている存在なのです。そのような者が、「悔い改めます」などと言っても、わたしは信じないとヨハネは彼らに言っているのではないでしょうか。「悔い改めに相応しい実」とは、彼らの行いではないのは明らかです。わたしたちの行いも「悔い改めの実」ではないのです。ヨハネよりも優れたお方が結ぶ実が「悔い改めの実」なのです。良い実を結ぶ良い木がイエス・キリストです。このお方が結ぶ実こそが、わたしたちの「悔い改めに相応しい実」なのです。それは、イエス・キリストの十字架のことです。その十字架を信じる信仰がわたしたちの実なのです。

待降節は、クリスマスの喜びを待ち望む期節ですが、どうしてか典礼色は紫です。赤ではありません。白でもありません。紫。苦難の色です。四旬節、受難節と同じ色です。クリスマスの喜びは、主の御受難に支えられている喜びだということです。わたしたち変わり得ない罪人のために、十字架という良い実を結ぶために、地上に生まれてくださるお方をお迎えする期節。イエス・キリストの誕生は、苦難のための誕生です。わたしたちの救いのために、苦難を引き受けてくださるお方の誕生です。わたしたちが救い難い人間であるからこそ、主は地上に降らなければならなかったのです。天から地へ降らなければならなかったのです。天上にある平安を捨てて、地上の苦難の中に入るお方。このお方の誕生によって、わたしたちは救いの入り口に立つことができるのです。悔い改めに相応しい実を結ばせてくださるお方、主イエス・キリストの体と血に与って、待降節のときを主の苦難に包まれた救いを受け取りつつ歩んで行きましょう。あなたのうちに生きて働いてくださる神のお働きである信仰が、あなたを主イエス・キリストに結びつけ、良い木であるキリストの実があなたの実となって行きます。愚かで、哀れなわたしの中で、生きて働いてくださいと祈りながら、主の体と血に与りましょう。あなたの今は、主の苦しみの実り。主の苦難の賜物。主の憐れみの果実。

祈ります。

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