「彼の名はイエス」

2022年12月11日(待降節第3主日)
マタイによる福音書1章18節~23節

「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」と天使はヨセフに言います。マリアが生む男の子の名をイエスと名付ける意味は「彼の民を罪から救うから」だと天使は言っています。つまり、「イエス」という名は「罪から救う」という意味だと言われているのです。

「イエス」というのはギリシア語です。このギリシア語は、元々のヘブライ語の名前を音で訳した名前なのですが、その元々のヘブライ語名は「ヨシュア」です。ヘブライ語として読めば「イェホシュア」です。「ヤーウェ」という神の名前と「救う」という意味の「ヤーシャー」という動詞からできている名前が「イェホシュア」です。この名前のギリシア語読みが「イエス」となります。旧約聖書のヨシュア記は、ギリシア語訳の際に「イエスース」と訳されています。ですから、ここでヨセフに告げられたこどもの名前は「ヤーウェは救い」、「主は救う」という意味の名前なのです。

「彼の名はイエス」と天使はヨセフに告げました。面白いことに、ヨセフという名前は旧約聖書の創世記の最後に出てくる人で、「夢見る人」と言われています。旧約のヨセフは夢を解く人でした。ここでも、マリアの婚約者ヨセフは夢の中で、天使のお告げを聞きます。聖書においては、夢は神のご意志を人間が聞くことができる通路なのです。この同じ通路を通って、マリアの胎の子が「彼の名はイエス」と告げられています。イエスという名は、神のご意志を表す名前なのです。

この名前が指し示しているのは、人間が人間を救うことはできないということです。人間を救うのは神であるということです。「主は救い」という名前が神の意志であり、その名前を付けられたイエスは「主は救い」であることを人々に伝える存在だということです。ここで大事なことは、人間は救うことができないからこそ、神が救うということです。わたしたちは自分で自分を救うことはできません。わたし以外の存在が、わたしを救うのです。しかも、人間同士では救うことができませんから、神がわざわざ救いの手を差し伸べてくださるのです。わたしたちは、人間関係によって教会に導かれたとしても、救いを受け取るのは人間関係ではありません。あくまで、その人に関わってくださる神がおられなければ救われることはないのです。救いとは、わたしと神さまとの間の出来事だからです。

ヨセフは、マリアの胎に宿っているいのちが「聖霊を起源としている」とマリアから聞かされたのでしょう。しかし、信じることができず、マリアを密かに追い出そうとしました。そのとき、ヨセフの夢の中に天使が現れました。恐らく、ヨセフも悩んでいたことでしょう。眠れない日々を送っていたのかも知れません。彼は、「正しい人」と言われていますが、マリアを追い出すことが正しいのか、そのまま受け入れることが正しいのか、判断できずにいたのだろうと思います。そのようなヨセフに、神のお告げがあったのです。聖書が言う「義しさ」は神の意志に従うことです。社会的に受け入れられることが義しいことではないのです。社会的に受け入れられないようなことにも、神さまのご意志があるのです。神のご意志は、社会的義しさに基づいて人間が判断できるようなものではありません。ですから、神はヨセフの夢に天使を送ったのでしょう。ご自身の意志を伝えるために天使を送ったのは神です。

天使がヨセフに最初に語る言葉は「恐れるな」です。「恐れるな」と天使が告げるということは、ヨセフが社会的な人間関係から締め出されることを恐れていたからだと言えるでしょう。だから、「恐れるな」と天使はヨセフを励ましたのです。人々が、あなたを愚か者と批判するかも知れないが、人間を恐れることはないと天使は言っているのです。そして「マリアをあなたの妻として受け入れなさい」と言います。マリアを見捨てたならば、マリアは放り出され、批判され、石打の刑になるかも知れません。ヨセフが愚か者と言われようとも、マリアを受け入れることによって、マリアは救われるのです。さらに、マリアの胎の子も救われるのです。

それにしても、マリアの胎の子は「主は救い」という名前であるのに、ヨセフによって救われるということは面白いことです。イエスが彼の民を救うはずなのに、まずはヨセフによって救われなければならないのです。救われたイエスが、民を救うということですね。イエスという名前が示す通りに、イエスご自身が「主は救い」という信仰の出来事を経験するのです。イエスご自身が「主は救い」という出来事を表すのです。それはまた、十字架においても表される名前なのです。イエスが十字架に架けられ、殺害されてもなお、「主は救い」という神のご意志は変わることなく、イエスを復活させてくださいました。イエスは、誕生の時、そして死の時にご自身の名前を生きて示したと言えます。それが「彼の名はイエス」と告げた天使の言葉の意味でした。イエスという名をそのままに生きるお方が「救い」なのです。救われたお方が救うお方として生きるということですね。これは、弱さを知っている人が、弱い人たちを支えることができるということと同じです。強い人は、弱い人を支えることはできません。むしろ、強い人が弱い人を批判してしまうものです。できる人はできない人の苦しみを知ることができません。強い人は弱い人の哀れさを知ることはできません。同じように、救われなければならない弱さを知っている人が、同じ弱さの中で苦しんでいる人に寄り添い、支えることができます。それはまた、真実を隠さないことでもあります。

義しい人ヨセフは、マリアのことを表沙汰にしたくないと、「密かに」マリアと別れることを考えていました。「密かに」ということは、人に知られることなくということです。しかし、神はヨセフの「密かな」思いを知っておられて、夢に天使を送ったのです。わたしたち人間が人に隠して、「密かに」ことを進めようとしても、神さまはすべてを見ておられて、隠すことなく受け入れなさいとおっしゃるのです。隠すこと、真実を曲げること、それが義しさではないことは誰にでも分かります。しかし、社会の中で人間関係を壊したくないので、わたしたちは「密かに」ことを進めようとしますし、誰にも知られないように隠すことがあるのです。このようなヨセフの姿に対して、本当の義しさを神は示してくださったと言えるでしょう。

わたしたちが隠したとしても、神さまはご存知ですと、イエスはおっしゃっていますよね。すべてをお見通しですから、自分は善いことをしていると思っても、その心の奥で悪が働いていることを神さまはご存じだと、イエスは他の箇所でおっしゃっています。神さまは、ヨセフがご自分の前で義しく生きて欲しいと願ったのでしょう。そして、ご自分の意志であるイエスが救われるために、ヨセフに天使を送ったのです。ヨセフが隠すことなく、人を恐れることなく、生きていくことができるようにしてくださったのです。たとえ、ヨセフが馬鹿にされようとも、義しく生きるようにしてくださったのです。

待降節第三主日に灯されるロウソクの色はピンクです。これはマリアを表しています。マリアとは、ヘブライ語ではミリアムで、「苦さ」という意味です。ヨセフにとっては「苦さ」と感じられたマリアを受け入れることによって、「主は救い」という名前のイエスが生まれることになった。ヨセフは苦さを引き受けたと言えます。ヨセフが「苦さ」を引き受ける力は、神からやってきました。ヨセフは逃げ出したかったけれども、神が力を持って彼を支え、「主は救い」というイエスの名を守ってくださった。この出来事をわたしたちは心に刻みましょう。神はご自身の意志を実現するために、苦さを引き受ける力をわたしたちに与えてくださいます。「彼の名はイエス」、主は救い。この名に信頼して生きるために、わたしたちは救われたのです。「インマヌエル」共におられる神と共に、待降節の歩みが、あなたの上に、イエスの名を刻みつける歩みでありますように。あなたは救われた者。あなたを救い給うた神のもの。救いの日々を共に生きていきましょう。

祈ります。

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