「憐れみの力」

2022年12月18日(待降節第4主日)
ルカによる福音書1章46節〜56節

「その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。」とマリアは歌っています。「代々に限りなく」という言葉は、世代が続いていく姿を表しています。つまり、始まりの世代から、次の世代、その次の世代へと続いていくと、マリアは歌っているのです。続いていくのは、「神の憐れみ」です。そのお方は、「力ある方」と言われていますが、ギリシア語では「可能とする方」です。つまり、あらゆることの可能性を現実に現すお方ということです。神さまの憐れみは可能性としていつでも神さまのうちにあるのですが、それが現実の中に現れるようになさるのは神さまだということです。

マリアは、天使ガブリエルが告げた神の言葉を聞いて、「お言葉どおり、この身に成りますように」と応えました。そのとき、ガブリエルが告げたのは、マリアの親類のエリサベトの妊娠でした。年を取っているエリサベト、不妊の女と言われていたエリサベトが孕っていると告げたのです。その言葉を確認するために、エリサベトの許を訪れたマリアはエリサベトの胎の子が喜び踊る様を見て、マリアの讃歌を歌いました。エリサベトの胎の子の喜びがマリアに感応したような喜びの歌でした。人間的に不可能だと思われていたエリサベトの妊娠を確認したマリアが「可能とする方」の力を「憐れみ」だと理解したのです。

マリア自身は、エリサベトとは反対に、年若く、結婚もしていないのに聖霊によって妊娠すると告げられました。これも人間的には不可能な事柄でした。しかし、彼女はエリサベトと正反対のことであろうとも、「可能とする方」にはすべてが可能であると信じました。人間的に可能な範囲の外側にいるのが、マリアとエリサベトでした。彼らに起こっていることは、人間的な可能の範囲を超えた出来事だったのです。人間に可能な範囲の外側ですから、神の領域の出来事です。それを可能にするのは神以外にはおられません。このような「可能とする方」の力を喜び歌うのがマリアの讃歌です。

マリアは、48節でこう歌っています。「今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう」と。この言葉にも「世代」という言葉が入っています。「いつの世の人も」と訳されていますが、「すべての世代が」というのが原文です。世代から世代へと続いていくすべての世代がマリアを幸いな者と言うと歌っています。どうして、そのようにマリアは歌うのでしょうか。「幸いな者と言う」という言葉は、イエスが山上の説教で宣言した「幸いな者たち」という言葉と同じ言葉に属する動詞です。山上の説教では、人間的には「幸い」とは言えないような境遇に置かれた人たちが「幸い」と言われています。マリアたちもまた、人間的に不可能だと思われることが、その身に起こっているのです。人間が受け入れることができないような「幸い」を経験しているのが山上の説教を聞いた人たちであり、マリアとエリサベトも同じ「幸い」を経験しているということです。

わたしたち人間は、自分たちが科学的に判断して、可能か不可能かを決めています。それは、確かにわたしたち人間の範囲では当てはまっています。ところが、神のご支配の世界においては、人間的範囲の外側に置かれた人たちが「幸い」を宣言され、経験しているのです。聖書はこの証言の記録でもあります。人間的にこうなるに違いないと考えられていたことが覆されるとき、わたしたちは不思議なことが起こったと思います。そして、すぐに忘れ、日常に戻っていきます。ところが、マリアは自分の身に起こったことを通して、今から後に続いていく世代が、自分を「幸いな者と言う」と歌うのです。つまり、誰も忘れることなく、語り継いで行くと歌っているのです。どうして、マリアはそう歌うことができたのでしょうか。彼女の魂の経験だったからです。マリアをマリアとしている魂の経験だったからです。

イスラエルの片隅に住む若い女のことを語り継ぐことなどありそうにもない、と誰もが思うところで、いやそうではないのだとマリアは歌っているのです。それは、自分自身の経験に基づいた歌です。だからこそ、「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」と歌い始めています。彼女の体の経験ではなく、彼女の魂の経験だと歌うのです。マリアの魂、マリア自身そのものが経験した救い主である神の経験だということです。そのような経験は、マリアの心の中だけの経験だと思いがちです。ところが、「今から後」の世代から世代へと語り継がれていくとマリアは歌います。なぜなら、魂の経験は嘘偽りのない経験だからです。だからこそ、エリサベトの胎の子さえも、マリアに感応したのです。

言葉の通じない胎の子にも通じたということは、エリサベトの胎の子の魂が感応したということでしょう。そうであれば、感応する魂には伝わっていくということです。口の言葉が語られなくとも伝わっていくということです。そのように語り継がれていくマリアの幸いを受け取る魂があるのです。おそらく、この時代にも、マリアとエリサベトにしか通じなかったかもしれません。しかし、二人には通じ合うものがあったのです。他の人たち、人間的な範囲でしか物事を考えることができない人たちには通じなくとも、通じ合う魂が起こされる。そう信じることができたマリアが歌うのです、「今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう」と。このように歌うことができる人は幸いです。このように信じることができる人は幸いです。自分の身に起こった神の出来事を信じ受け入れることができたマリアは幸いです。マリアは最初のキリスト者でしょう。もちろん、当時はキリスト者ではなく、ユダヤ教徒と考えられていたのですが。

マリアは未だ自分の胎に子が宿っているとは感じられなかったはずです。それでも、エリサベトの胎の子と感応し合ったことを通して、彼女は信じる者としての幸いを感じたのです。マリアのうちに働いた信仰が神の憐れみを受け取りました。エリサベトの身に起こったことは、神の憐れみだと感じ取ったのです。自分自身の身に起こったことは、大変な負担だと思っていたかも知れません。しかし、エリサベトのことを知るに及んで、マリアは自分の身に起こったことも神の憐れみだと知ったのです。自分は低くされている存在だと思っていたマリアが高い天に上げられた感じだったでしょう。「身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし」てくださる神の御業の中に、自分も入っていると信じることができたのです。これがイスラエルの歴史、聖書の中で語り継がれてきた神の御業だったと信じることができたのです。

マリアのうちに、これほどの信頼を起こしたのは、神さまです。神さまの憐れみが、マリアをしっかりと立つように導いてくださった。だからこそ、彼女の魂は主を崇めると歌うのです。普通ならば、こんな大変な仕事を押し付けられて、文句を言いたいと思うような境遇に置かれたマリアです。それなのに、彼女の魂は主を崇めるのです。そのような魂の讃美は、同じ魂を持つ人たちに伝わっていきます。低くされている人たち、蔑まれている人たち、弱くされている人たち、苦しめられている人たち、正しいことを求めても虐げられる人たち。そのような人たちがすべて同じ魂を持っているというわけではありません。しかし、少なくとも、マリアと同じように低くされていることを知っている魂であれば、人間的な範囲を超えた神さまの働きを受け取ることができるでしょう。そして、マリアと同じようにその魂で、幸いを感じ取ることができるでしょう。嘘偽りのない魂が感じ取る幸い。それが神の憐れみです。そして、神の可能とする力が発揮されるのです。

わたしたちが待ち望む救い主イエス・キリストのお誕生は、この幸いを感じ取る魂に届けられる喜びです。十字架の苦しみを引き受けてもなお、生きておられるお方の誕生をその魂で受け取る一人ひとりが幸いな者です。その口で、その喉で、キリストの体と血を受ける一人ひとりの魂が幸いを受けるのです。クリスマスのみどりごは、ご自身の体と血である憐れみの力によってわたしたちを幸いな者としてくださいます。

祈りましょう。

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