「いと高き光」

2022年12月24日(降誕日前夜)
ルカによる福音書2章1節~20節

「主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた」と記されています。原文では「主の天使が彼らの上に立った。そして、主の栄光が巡り照らした、彼らを」となっています。主の天使が近づいたのは、天からです。聖書では、天使は彼らの上空に立ったと記されています。さらに、彼らの周りを照らしたのではなく、彼ら一人ひとりを光が巡りながら照らしたのです。巡り照らしたのは主の栄光だと言われていますから、栄光は光なのです。「いと高きところに栄光」と天使が歌うように、栄光の光は高きところから地上を照らす光です。「栄光」という言葉はドクサというギリシア語ですが、「輝き」という意味です。同じく「栄光」と訳されるヘブライ語のカーボードも「輝き」を表す言葉です。

「栄光」が「輝き」であるとしても、わたしたちが目にしている「光」と同じとは言えません。「栄光」という言葉が表しているのは、視覚的な「光」ではないのです。わたしたち人間が神さまを認識するときには「光」のように見えるのですが、「主の栄光」という言葉が表しているのは神というお方の在り方です。聖書においては、人間から見て良いことだけを「栄光」と呼んでいるわけではありません。キリストの十字架も「栄光」です。ヨハネによる福音書では十字架は「栄光」と言われています。暗く、辛い十字架が「栄光」と言われるとすれば、わたしたちが認識するような「良いこと」とは違うことになります。単に外部から照らす光とは違うということになります。では、どこに輝くのでしょうか。どのような光なのでしょうか。

「主の天使が近づいた」という言葉の原文が、「主の天使が彼らの上に立った」という言い方だと先ほど申しましたが、この表現は旧約の預言者に主の霊が臨んだという表現と似通っています。預言者たちの上に、主の霊が立つことによって、預言者たちは霊に満たされ、神の言葉を受け取るのです。そのような表現と似通っているということは、羊飼いたち一人ひとりを照らした主の栄光は、羊飼いたちの魂を照らしたのでしょう。主の栄光は外側の光ではないからです。羊飼いたちの内なる魂の上に、主の天使が立ったということでしょう。それゆえに、天使の言葉を彼らは魂で聞いたのです。それは、言葉というよりも、イメージとして与えられた言葉でしょう。だから「その出来事を見る」ために出かけたと記されているのです。

主の栄光に照らされた魂は、地にひれ伏します。文字通りに、地面に顔を伏せるという行為を伴いながらも、彼らの魂が主なる神の前にひれ伏し、神をあがめたのです。この行為が、この姿が、神の前に生きる者の姿だと言えます。神を畏れ敬い、神の言に耳を傾ける姿。それが羊飼いたちの姿です。彼らは、自らの低さ、自らの罪深さを知らされて「恐れた」のですが、天使の「恐れるな」と言う言葉によって、まっすぐに自分の罪を受け入れる者とされました。自分自身の罪を認め受け入れる魂が神の前にひれ伏す魂です。そのような魂は、神の言葉に従います。彼らは預言者たちと同じ魂を持っているのです。主の天使が彼らの上に立つことを受け入れた魂は、自分の上で支配する主なる神を受け入れた魂です。このような魂を主の栄光が照らしているのです。正反対の魂には、十字架は闇でしかないということです。神の栄光を受け入れることがない魂には、光が闇であり、闇が光なのです。

当時の社会において、羊飼いは闇の仕事だと思われていました。汚れた仕事だと思われていました。しかし、闇に思える汚れた羊飼いたちの魂こそ、まっすぐに神の前に立つことができる魂だったのです。だからこそ、彼らの上に天使が立ち、主の栄光が彼らの魂を照らしたのです。反対に、社会において輝いている人たちは、陰で悪を行い、他者を陥れ、自分たちが世界を支配しようとします。そのような人たちの魂の上には、主の天使が立つことはないのです。いや、彼らは主の天使が自分たちの上に立つことを許さないでしょう。自分たちが人々の上に立とうとするからです。そのために、嘘をつき、陰で物事を決めます。羊飼いたちは、そのような社会を支配する人たちに蔑まれていました。ところが、主の栄光を受け入れたのは、羊飼いたちだったというわけです。

天使は、そして神は、どうして彼らを選んだのでしょうか。いえ、「民全体に与えられる大きな喜びを告げる」と天使が言うように、すべての民に与えられる喜びなのです。しかし、受け入れる人はすべての人ではないでしょう。まず、受け入れることができた羊飼いたちに与えられ、次に受け入れることができる人たちに告げられるということです。彼らが受け入れる人を選ぶわけではありません。彼らが伝えたとしても、受け入れない人は受け入れないでしょう。受け入れる人は、神の言に耳を開く魂だということです。

羊飼いたちと同じように、蔑まれ、片隅に追いやられているような人たちを神は選ばれたのです。彼らが神の言葉を聞くようにされた魂だったからです。神の言葉は天上の栄光を現す言葉ですから、地上の言葉とは違います。地上の姿とは違います。十字架が地上の闇に思えるのが、地上の姿でしょう。しかし、天上の栄光である十字架を見ることができるのは、神の言葉を聞く魂です。主の栄光が照らした魂です。そのような人の上に、主の栄光は輝いているのです。主の栄光を受け入れている人は、主の栄光と同じく、蔑まれてもなお、まっすぐに神に向かって立つことができるのです。羊飼いたちはそのような人たちでした。だからこそ、彼らは天使が去った後、こう言うのです。「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と。

「主が知らせてくださった出来事」とは、「主がわたしたちに認識させた出来事」という意味です。その出来事は原文では「これらの語られた言葉」だと言われています。それは原文通りに理解すれば、主なる神が自分たちに認識させてくださった「出来事」のイメージとなっている「語られた言葉」を見ようという意味です。神の言葉は出来事になっていると彼らは認識したのです。それで、彼らはその出来事のイメージを追って、出かけていくのです。そのイメージは飼い葉桶に横たわっている乳飲み子というイメージでした。それが「しるし」であると天使は言っています。つまり、本体を指し示す「しるし」、指標だと言うのです。乳飲み子が指し示している本体はいったい何でしょうか。「地の上の平和」です。

天にある神の栄光が、地の上に平和として現れるということです。乳飲み子の平和が、天上の栄光を映しているのです。天上において輝いている神の栄光は、地上において、飼い葉桶に眠る嬰児として現れているということです。何の力も無い嬰児が眠る姿が平和だということでしょう。力があるから平和があると、わたしたちは考えます。自分たち人間の力によって平和を来たらせようと躍起になって、争いは広がっていきます。そのような人間たちのうちには、不安が渦巻いています。しかし、羊飼いのように、虐げられ、蔑まれる状況を受け入れて生きる魂は平和に満たされています。主なる神は、このような人たち、このような魂を照らす「いと高き光」なのです。

クリスマスの夜に輝いた主の栄光は、羊飼いたちの魂の光でした。わたしたち、主を待ち望む魂もまた、主の栄光に照らされています。まっすぐに、偽ることなく、神の前に罪を認める魂は、主の栄光に包まれています。わたしたちに与えられる神の御子イエス・キリストのお誕生の喜びは、十字架のキリストの栄光に導く光です。神は決してわたしをお見捨てにならないと信じる信仰へと導く光。「いと高き光」は天上の栄光を地上の平和として与えてくださいます。

この夜、あなたのうちに御子をお迎えする聖餐に与り、あなたの魂が光に包まれますように。あなたが世の光、地の塩として、真実に生きる光となりますように。

祈ります。

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