「新たに生かす」

2023年1月1日(新年聖餐礼拝)
ルカによる福音書13章6節〜9節

「御主人様、今年もこのままにしておいてください。」と園丁は言います。「このままにする」という言葉は、「手放す」という意味の言葉です。「実がならない」ということをしっかりと握りしめていないで、手放してくださいと、園丁は主人に言っているようです。それはまた、自由にしてくださいということでもあるでしょう。いちじくの木が自由を与えられるようにと園丁は主人に申し出ているのです。イエスはたとえの中で、いちじくの木の自由を求めている。いちじくの木が自由にされるならば、本来与えられている命が芽吹いてくるであろうと、園丁は考えているようです。

わたしたち人間は、自分は自由になりたいのに、他者を縛り付けるように動いてしまいます。身動き取れないようにしてしまうものです。そうして、自らの自由を確保しようとします。それは自由ではなく、相手の不自由をしっかりと自分の手に握っているので、自分も相手に縛り付けられていると言えます。他者の自由を奪う自分も不自由になってしまうのです。園丁は主人にも自由であって欲しいと願ったのでしょう。だからこそ、「今年もこのままにしておいてください。」と言うのです。主人にも本来の主人のままであって欲しいと言っているように思えます。

主人は、3年間「実がなっていないか」と調べにやってきました。これが主人を不自由にしていると言えます。3という数字は、聖書では完全数と言われます。ですから、3年間何もならないいちじくの木は完全に実をつけない木だと、一般的には考えられていました。主人も同じように考えているのです。ところが、園丁は「今年も」と言います。「今年も」ということは、昨年も一昨年も言われた言葉だったでしょう。そして、今年で4年目に入ります。聖書では、4という数字は地上世界を表す数字です。天上世界は円で表されますが、地上世界は四角形で表されます。「全世界から」ということを表すために、「四方から」と言いますね。聖書の表現では、「四隅から」となっています。または「東から、西から、北から、南から」とも言います。4が地上世界を表すとすれば、園丁が求める4年目は、地上世界を地上世界として守ることを意味しているのかも知れません。そのために、園丁は「今年もこのままに」と言うのです。

4年が満たされたとき、最後の審判が来るということかも知れません。最後の審判は避けようがありません。4年目が世界の終わりを意味しているとすれば、園丁が求めているのは、世界の終わりまで自由を与えてくださいということでしょう。最後の審判のときに、いちじくの木は実を結ぶのか、結ばないのか。それは分かりません。しかし、最後の一年の猶予が与えられた。最後の自由が与えられたと考えて良いでしょう。この自由をどう生きるかは、いちじくの木次第だということになります。いちじくの木はどう生きるのでしょうか。園丁の心を受け取っているならば、頑張って実を結ぶのでしょうか。いえ、それはできないのです。なぜなら、自然は頑張って実を結ぶようなものではないからです。

自然のいちじくの木は、実を結ぶときに結ぶのです。頑張るということは、人間的な行為です。無理矢理、実を結ぶということなどできることではありません。自然の中では、頑張ることはないとすれば、いちじくの木は実をつけるかも知れないし、つけないかも知れないというだけです。園丁が「木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。」と言う通りです。実がなるかも知れないし、ならないかも知れない。そのいちじくの木が実をならせるようになっていれば、実がなるということですから、運任せとも言えるでしょう。しかし、それは神が造られたようになると言うことです。だから、園丁は主人に対して、神が実を結ばせるかも知れませんが、実を結ばせないかも知れませんと言っているのではないでしょうか。そうであれば、運任せ、行き当たりばったりの話ですね。それなのに、園丁は「木の周りを掘って、肥やしをやってみます。」と言うのです。つまり、園丁は自分にできることをすると言っているわけです。園丁が自分にできることをしたからと言って、必ず実を結ぶとは限りません。そのようなことは承知の上で、園丁は木の周りを掘って、肥やしをやるのです。運任せの賭けのようです。いや、無駄な努力に終わるかも知れないとも思えます。

ここで努力しているのは、園丁です。いちじくの木ではありません。いちじくの木は自由を与えられていますので、実を結ぶときには結ぶでしょうということです。それでも結ばないならば、切り倒される。一年の自由を保障されたとしても、必ず実を結ぶとは言えないのです。無駄になるかも知れない肥やしをやってみる園丁は、無駄なことをしたという結果になることも引き受けて、木の周りを掘り、肥やしをやるのです。この園丁がキリストでしょう。そして、主人は人間の支配者でしょう。無駄な努力をするキリストがいて、いちじくの木は一年の自由を与えられる。いちじくの木はこのわたしのように思えます。

いちじくの木は、わたしのことだと受け取るならば、実を結ぶのかと言えば、そうは言えません。わたしもまた、悔い改めて実を結ぶに至るかどうかを自分でも保障できないのです。そうなるときにそうなるでしょうとしか言えません。このたとえを聞いたときには、悔い改めて実を結ぼうと思うかも知れません。でも、その思いを保つことができるわけではないのです。わたしたちは最初の思いを持続できないものです。だからこそ、アダムとエヴァの堕罪が起こったと言えます。

この人間の原罪の姿をご存知の上で、イエスはこのたとえを語ったのです。イエスは、「もしかしたら」としかおっしゃっていません。必ず実がなるとはおっしゃらない。このたとえは、いちじくの木が必ず実をならせるように努力するということでもありません。いちじくの木を新たに生かすのは園丁であり、イエス・キリストだと語っているのです。自由を与えられたいちじくの木は、与えられた自由を罪に縛られることなく生きるようにされるとすれば、いちじくの木の力によってではないのです。あくまで、神がそのようにしてくださるだけです。その機会を与えられて、自由を生きるようにされたいちじくの木なのです。

このたとえの前にあるイエスのたとえでは「悔い改め」がテーマになっていますが、「悔い改め」の意味は方向転換です。生き方の方向を転換することですから、自分で頑張って生きる方向から、神に信頼して自由を生きる方向へと転換することなのです。与えられた自由を自由のままに生きる。それが一年だけの期限付きであろうとも、自由を生きる。そのとき、いちじくの木は神によって造られたままに生きていくことでしょう。たとえ、実を結ぶことができず、切り倒されても後悔しない生き方をするでしょう。主人が手放してくれたことで自由を生きることができる幸いを感謝して生きることでしょう。

イエス・キリストは、わたしたちに自由を与えるために、わたしたちの周りを掘ってくださった。わたしたちに肥やしを施してくださった。この園丁の労苦はキリストの十字架の労苦なのです。キリストが十字架で死んだとしても、すべての人が悔い改めて、神を信頼する方向へと新たに生きるかと言えば、そうは言えないのです。新たに生きるであろう人が方向転換するでしょう。すべての人ではないとしても、キリストは十字架を負ってくださったのです。すべての人のために負ってくださったのです。無駄になるとしても負ってくださったのです。それこそが、キリストの十字架であり、わたしたちに自由を与える神の言葉、真理の言葉なのです。

2023年の主題聖句をヨハネ8章32節としました。「真理はあなたたちを自由にする」というみことばです。わたしたちを新たに生かすために、自由な一年を与えてくださったキリストの力に信頼して、歩み続けて行きましょう。

祈ります。

 

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