「異なる道を」

2023年1月8日(顕現主日)
マタイによる福音書2章1節~12節

今日は顕現主日です。顕現という言葉が示す通り、救い主が「現れた」ことを祝う日です。1月6日が顕現日ですが、その後の主日を顕現主日としてまもっています。この日は、古いクリスマスなのです。新しいクリスマスは12月25日ですが、1月6日にクリスマスを祝っている教会もあります。東方教会です。ロシア正教やギリシア正教の教会です。西方教会は、カトリックやルーテル教会です。年始のニュースでもウクライナの教会がクリスマスを祝っていると報道されていましたね。顕現日は、古い冬至の日で、夜が一番長く、昼が一番短い日です。次の日から昼がだんだん長くなっていきます。光が生まれて、広がっていく最初の日ということで、クリスマスとして守っていました。もうお正月なのに、どうしてクリスマスの箇所を読むのかと思うでしょうが、そのような意味があるのです。

さて、今日の聖書の一番最後には「別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」と記されています。それは夢でお告げがあったからだと言われています。「別の道」ですから、イスラエルに来たときに使った道とは異なる道を使ったということです。道はいくつもあるわけです。ヘロデに分からないように異なる道を使った占星術の学者たちは、いくつもの道を知っていた。わたしたちは、いつも同じ道を通ることで安心します。しかし、同じ道を通ることによって、ヘロデに使われることになるとすれば、ヘロデが知らないような道を選ぶのです。同じ道が良いとわたしたちは考えますが、それは同じ道の方が迷わなくて良いというだけです。以前と同じことをしていれば安心だというのも同じでしょう。同じようにしているのだから、失敗はしないと思うものです。失敗しないことを最優先にするために、同じ道を通る。しかし、今日の学者たちは同じ道を通らず、異なる道を通った。同じことの繰り返しは、新しい王を葬ることになると分かったからです。

ヘロデもエルサレムに住んでいた人たちも、聞いたこともない王の誕生にうろたえます。混乱しないために、ヘロデは新しい王として誕生した幼子を殺害しようと考えました。混乱を防ぐために、殺害が行われる。そのような悪が行われないようにと、神は学者たちに夢で告げるのです。ヘロデのところに帰ってはならないと。そして、異なる道を通って、学者たちは自分たちの国へと帰っていきました。学者たちが異なる道を選んだことによって、幼子は殺害されることなく、守られました。いのちを守るためには、異なる道を通ることが必要だったのです。

今日の聖書には、他にも異なる道が語られています。エルサレムの聖書学者たちが見出したミカ書5章1節のみことばで示されているのも「異なる道」です。通常ならば、大きな部族から王が出るものですが、最も小さな部族から王が出ると語られています。マタイの引用文では「いちばん小さいものではない」となっていますが、旧約聖書では「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。」となっています。どうして、マタイはそのまま引用しなかったのでしょうか。おそらく、救い主イエスが生まれるのだから、「いちばん小さいものではない」としたのでしょう。ミカ書が語っているのは、通常と異なる基準で指導者が生まれるということです。異なる道を通って、指導者が生まれる。それはまた、神の選びを人間が慣習に従って決めることなどできないと、語っているのです。だからこそ、学者たちにも神の介入があって、異なる道を通ることになった。神が介入した異なる道によって、人間であるヘロデの計画は遂行できなくなりました。異なる道を通ることは誰にでもできるものです。しかし、慣習を優先してしまう人間的考えから抜け出すことができず、いつもの通り、例年通りと行ってしまう人には選ぶことはできません。ここから抜け出すにはどうしたら良いのでしょうか。

神の啓示が必要なのです。しかし、神の啓示を人間が操ることはできません。あくまで、神が望むときとところにおいて与えられるのが啓示です。さらに、啓示を受けることができる人が受ける。ですから、誰でも受けることができるとは言えません。特に、慣習に縛られている人は受けることはない。慣習から解放されている人、自由な人は受けるでしょう。占星術の学者たちは自由な人たちだったと言えます。

占星術と聞くと、占いかと思ってしまうでしょうね。しかし、彼らは現代で言えば、天文学者です。星の動きに規則性を見出しているのですが、時に星が通常と違う動きをすることがある。異なる道を通ることがある。そのとき、天に啓示のしるしが現れていると彼らは受け取るのです。通常と違うことが、神の啓示だと受け取るとすれば、彼らは常に異なる道を探していたとも言えるでしょう。異なることを探していたので、異なることが起こることも受け入れていました。エルサレムにやって来た時には、彼らも通常の道を通って、新しい王が生まれるのだと考えていました。しかし、ヘロデには跡継ぎの誕生はありませんでした。それで、聖書の中に記されているベツレヘムを教えられ、行って調べることになりました。新しい王の誕生は、異なる道を通って実現することが示されたと言えるでしょう。そこで、ようやく彼らは自分たち本来の天文学の道に戻ったのです。異なる道を探すところに戻ったのです。そのとき、東の方で見た星が彼らを導いたと聖書は語っています。異なる道を探す魂を星が導いて、不思議に幼子のいるところを示したのです。それはそうでしょう。異なる道ですから、天の導きがなければ発見できないのです。学者たちは、異なる道を通って、自分たちの国へ帰ったと記されています。幼子は救われ、彼らは無事に自分の国に帰った。その陰で、ベツレヘム周辺の幼子の殺害という悲しい出来事が起こりました。この悲しみをイエスはご自身の十字架にまで担って行かれた。人間の罪をご自身の十字架に至るまで担い続けたのはこの幼子です。

神の啓示は真理ですから、彼らを迷わせることはありません。道を間違えるとすれば、人間的な思いで自分が考える道を選ぶからでしょう。神の導き、神の啓示、星が指し示す道。それが地上の人間的な判断とは違う異なる道を指し示すのです。神の言葉が指し示す道。その道は、わたしたちにはいつもと違う道としか思えません。これで大丈夫なのだろうかと思ってしまいます。しかし、違う道だからこそ、神に信頼していれば大丈夫なのです。良く、前例がないと言う人がいますね。その人は、間違えないために、前例があることだけをしようとします。冒険はしない。安全を選択する。そのような魂では、異なる道を通って、救いに与ることはないでしょう。

学者たちは、異なることを見出したときに「新しいことを発見した」と喜ぶ魂を持っていました。通常と異なるからこそ「発見」であり、新しいことなのです。いつも通りの道は、失敗はしないというだけで何もない道です。いや、失敗ということも本来はないのです。失敗することで、わたしたちは学ぶのですから。違うことが起こって失敗したかに思えたことが新しい発見につながることがあるのです。だから、失敗などない。いつも通りではなかったというだけです。いつも通りではなかったのは、神さまが介入したから。神さまのご意志がいつも通りを覆したから。そして、新しいことが起こるのです。

新しいことを受け入れるのは、自由な魂です。不自由な魂は、古い方が安心だと言います。いつも通りが良いと言うのです。そして、古さを重ねて行く。わたしたちキリスト者は、キリストに出会うことで、慣習に縛られた古い世界から救い出された者たちです。それでもなお、わたしたちはいつも慣習を作り出し、安心を作り出そうとします。慣習を壊し、いつも通りではないものを作り出すことに挑戦する魂が、占星術の学者たちでした。彼らの魂だけが、新しいものを発見し、死の準備のための宝物を献げたのです。ヘロデは新しいものを破壊しようとして、破壊することはできませんでした。神が破壊させなかった。異なる道を学者たちに選ばせることによって、破壊を回避した神がおられたのです。

学者たちの魂は自由でした。自由をはき違える魂とは反対でした。自由をはき違える人たちは、何でも許されると考えます。しかし、神が与える自由は一般論としての自由ではありません。もちろん、人間には従わない自由ですが、神に従う自由です。人間的思考に従うのではなく、神の意志に従う自由が聖書が言う自由です。人間に従おうとする不自由から解放されて、神に従う自由に生きる。これがキリスト者として生きる道です。だからこそ、異なる道なのです。異なる道を通って、自由を生きるのです。

マルティン・ルターは「キリスト者の自由」という本で、この自由について述べています。「キリスト者は何者にも支配されない」、「キリスト者は何者にも従う」という二つの異なる命題を一つとして生きるのがキリスト者であると述べています。キリスト者は何者にも支配されない自由を生きているのですが、何者にも従う自由を生きるということです。この自由は、神に従う自由です。何者にも支配されないキリスト者は、神に従う自由を生きるということですね。

あなたが自由であるために、キリストが担ってくださった不自由な十字架を見上げましょう。キリストはわたしたちのために不自由を引き受けてくださったお方です。わたしたちが考える自由とは違う自由、異なる自由の道が、十字架の上にあるのです。キリストがゲッセマネで祈ったように、「わたしの思いではなく、神様あなたのご意志がなりますように」とキリストは神に従う自由を生きたのです。キリストの十字架を見上げる人は、異なる道を通り、キリストの自由と一つとされます。この一年、異なる道を通って、自由を生きる者でありますように。

祈ります。

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