「神の時の中で」

2023年1月15日(主の洗礼日)
マタイによる福音書3章13節〜17節

「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」とイエスはヨハネに言っています。それに応えて、ヨハネは「イエスの言われるとおりにした」と記されています。「今は止めないでほしい」と訳されている言葉と「言われる通りにした」と訳されている言葉は、「今、手放せ」と「そのとき彼は彼を手放した」が原文です。ヨハネはイエスの言葉に従って手放したのです。この言葉は「赦す」という意味の言葉ですが、赦しとは、自分でしっかり握りしめていたものを「手放す」ことなのです。自分の思うように動かそうとしっかり握りしめているものを手放すことで、相手も自分自身も自由になるということでもあります。

主イエスはご自分の洗礼において、ヨハネが自分の考えに従わせようとする思いを捨てて、神の意志に従うようにと勧めているのです。イエスはお互いが神の意志の中に置かれている神のものとして行動しようと呼びかけていると言えます。それはまた、神が備え給うた時の中で、互いを赦し合うことでもあったのです。相手のうちに働いている神の意志を認めて、その人が神によって動かされていることを受け入れる。イエスは、ヨハネに対して互いに神の時の中で、自由を認め合いながら自分自身も自由を生きて行こうと呼びかけているのです。

わたしたち人間は、自分の思いだけが重要だと思いますし、自分の考えだけが正しいと思います。それゆえに、他者のうちに働いている神の意志を認めることができません。もちろん、他者が人間的な思惑で動いているということもあります。しかし、人間的な思惑に従って動いている人を止めようとしても止めることはできません。主イエスも、ユダを止めようとはしませんでした。むしろ、「友よ、しようとしていることをするがよい」とおっしゃったのです。イエスはユダを止めなかった。たとえ人間的な思惑であろうとも、それを赦しておられる神がおられると受け入れたのです。使徒パウロも言っています。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。」と。イエスもヨハネも、神の時の中で、神が備えたものを受け入れています。使徒パウロも同じです。すべては神の時の中で、善き方へ向かうと信じる姿が、ここにあります。

わたしたち人間の思いは、どうしても自分に都合の良い方向へ向かわせようとするものです。成り行きに任せていたならば、どうなってしまうか分からないと思うのです。イエスもヨハネも、それぞれに自分の思いはあったでしょう。それでもイエスがおっしゃるように「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」というところに立ったのです。この「正しいこと」という言葉は、ディカイオスュネーというギリシア語で日本語では「義」と訳されます。この言葉は、神との関係が義しい関係であるということを表す言葉です。神との間の義しい関係とは、神の意志に従うということです。自分の意志を手放して、神の意志に従うことです。ここでは、主イエスが洗礼を受けるということが、神との関係において義しいとイエスはおっしゃっているわけです。どうしてでしょうか。

ヨハネが言うように、「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに」ということが義しいことだと思えます。ところが、イエスはご自身がヨハネから洗礼を受けることが義しいとおっしゃる。それは、まず罪を告白して、洗礼を受けたイエスが洗礼を授ける者とされるということでしょう。同じ罪の中に身を沈めた者が、同じ罪を負う者を水に沈めることができる。いや、聖霊のうちに沈めることができるということです。それは、神が神としてあることに固執することなく、人間と同じ罪の姿となったと使徒パウロがフィリピの信徒への手紙2章8節以降で語っている通りです。主イエスは、人間と同じ罪の姿となり、罪の中に沈んでいる人間を救うために来られたからです。その救いは、神の時の中にあるのです。

「そのとき」という言葉が、13節の初めと15節の終わりに出てきます。この「そのとき」という言葉が指し示しているのは、まさにそれが神の時だったということです。イエスが「ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた」のも神の時の中での出来事でした。そして、イエスが水から上がった「そのとき、天がイエスに向かって開いた」という出来事も神の時だったのです。この言葉が示しているように、神の時はいつでもイエスのそばにある。いつでもわたしたちのそばにある。いつでも、神の時。それは必然的にそうなるようになっていたということです。神の時の中で、あるべきことがあるようになっていたのです。その神の意志に従って、イエスもヨハネも互いを手放し、互いに自由を生きた。神が与えてくださった自由を、神の意志に従うために用いた。それが、主イエスの洗礼において示されていることです。

わたしたち一人ひとりの人生においても、「そのとき」はいつもあります。神の時は、わたしの思いとは違うでしょう。わたしが自分の時を守ろうとして、自分の思いに従って行動するとしても、それも「そのとき」であり、神の時なのです。わたしたちが罪を犯した時も神の時の中でのことです。わたしが神に背いたことも、神がそのときを支配しておられるのですから、背きさえも神の支配の中に置かれている。自分の思いが実現したと思うときにも、結局は神の意志がなっていく。神への背きも従順も、最終的には神の裁きの中に置かれるということです。ただし、ヨハネもイエスも、自らの意志を手放したように、最終的には手放さざるを得ないということです。そして、神の意志がなっていく。そうであれば、わたしたちが手放そうと手放すまいと結局神が支配しておられる世界がなっていくと言えます。その神のご支配の中で生きるか否かは、自分の思いを手放すか否かにかかっているわけです。

わたしたちには、手放すことも手放さずしっかり握りしめていることも自由です。しかし、手放さず握りしめているならば、神の意志に従うことはないというだけです。そして、最後の審判においては、神から離されてしまうというだけです。それも自分が選択した負うべきものとして引き受けるしかないのです。ここでイエスがおっしゃるような「すべての義」からはかけ離れたことではあるでしょうが、自分が不義を選択したのですから、自分の責任です。これを避けることはできない。避けるとすれば、自らが義しくないことを認めて、神に救いを求めることしかないのです。

わたしたちは、主イエスがヨハネから洗礼を受けて、わたしたちと同じ罪の姿になってくださった出来事に基づいて、洗礼を受けています。マルティン・ルターが言ったように、罪の中で苦しむとき、「わたしは洗礼を受けている」と自分に言い聞かせることができるのです。主イエスと同じ「すべての義」を行うように導かれていると自分に言い聞かせることができるのです。ルターが言うのは、洗礼を受けているから大丈夫だという意味ではありません。自分は洗礼を受けている。罪を手放して、神の意志に従う洗礼を受けているという最初の地点に戻るということです。最初の地点に戻った人は、罪を手放して、神の意志に従う道を再び歩き出すでしょう。それでもまた、いつの間にか自分の思いを握りしめているということが起こります。その自分自身に気づくことも、神の時の中で起こってきます。すべての義しいことは、神との関係が義しくされているのですから、神の前に自らの罪を自覚する時なのです。神との間に義しいことが起こる神の時の中で、わたしたちが生きていくために、イエスは今日、ヨハネから洗礼を受けられた。そして、開かれた天から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声を聞いてくださった。わたしたちのために聞いてくださった。今日共にいただく聖餐は、このお方がわたしのうちに生きて働いてくださるためのいのちの糧です。あなたが神の時の中で生きていくことができるようにしてくださる神の賜物です。わたしたちのそばにいつもある神の時の中で、主イエスに従って、生きていきましょう。

祈ります。

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