「昇り来る光」

2023年1月22日(顕現節第3主日)
マタイによる福音書4章12節〜17節

「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。」と記されています。「捕えられた」という言葉は、「引き渡された」が原文です。この言葉は、ユダがイエスをユダヤ教指導者たちに引き渡した時にも使われています。そこでは「裏切る」と訳されています。ヨハネも裏切られたのでしょう。それで、イエスは自分もそうならないようにガリラヤへと「逃げていった」のです。

洗礼者ヨハネは北のガリラヤ湖から流れてきたヨルダン川が死海に流れ込む辺りの川で洗礼を施していたと思われます。イスラエルの南の方です。そこから、北のガリラヤへと逃げて行ったのです。イエスにとっての逃避行ではあるのですが、それが預言者イザヤによって語られたことが満たされる出来事だったとマタイは記しています。イエスが逃げるという行為が、イザヤの預言の通りの出来事となったわけです。面白いですね。

わたしたちが「預言が実現した」と考える場合は、良いことが起こったとか、勇ましい行為が行われて、預言が実現するのではないかと考えます。ところが、今日のイエスの場合は勇ましくありませんし、良いことが起こったわけでもありません。洗礼者ヨハネは裏切られ、イエスは逃げ出した。それがイザヤの預言が満たされることになったと言うのです。預言とは神の意志ですから、洗礼者ヨハネにとって不幸に思えることが神の意志だったということになります。そこから考えてみると、わたしたちに起こる不幸に思えることも、神のご意志の実現なのでしょうか。

そうです。預言者は良いことを預言してはいません。むしろ、不幸、イスラエルの滅びを預言しています。それが神の意志だと預言しています。本日の日課であるアモス書3章6節では「町に災いが起こったなら、それは主がなされたことではないか。」と言われています。神の意志は良いことだけではなく、イスラエルの民にとって不幸に思えることが神の意志として起こっていたのです。イエスや洗礼者ヨハネにとって不幸に思えることも神の意志だった。もちろん、イエスの十字架こそその最たるものです。そうであれば、わたしたちに起こってくる不幸も、苦難も、すべて神の意志だと受け取るべきなのでしょうか。幸いは神の意志ではないのでしょうか。いえ、幸いも神の意志です。わたしたちにとっての幸いも不幸も神の意志があってこそ起こるということです。イエスは別の箇所で、このようなことを言っています。「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。」と。原文には「お許し」という言葉はありません。「あなたがたの父なしには」となっています。一羽の雀が地に落ちることも、父なる神がおられなければ起こらないとイエスはおっしゃっているのです。つまりは、神の意志がそこにあって起こるのだという意味です。ですから、いかなることも神の意志があって起こる。それが、わたしにとって不幸と感じられようと幸いと感じられようと神の意志によって出来事は起こっているということです。

では、今起こっているウクライナの戦争も神の意志なのかと思いますよね。聖書はそう言うのです。その出来事にどのように関わるかによって、出来事自体は変化していきます。そこに神の意志を認めて引き受けるのか。人間の悪を見て、対抗するのか。しかし、どのように関わろうとも、最終的には神の意志がなっていくということが、聖書が語っていることです。イエスのように逃げても、神の意志がなっていくのです。

イエスが逃げることによって、ガリラヤの地に住む人たちに光が昇ったと聖書は語っています。ヨハネの不幸とイエスの逃避が、ガリラヤの地に光が昇る結果となったわけです。これでは何が良いことなのか、悪いことなのか分かりませんね。結局、わたしたち人間は、それぞれの立場で良いことと悪いことを判断していますから、一つの出来事がすべての人に良いこととは言えないだけです。イエスが逃げたことによって、ガリラヤの、しかも「暗闇に住む民」、「死の陰の地に住む者」に「光が昇った」。単にガリラヤ全体ということではなく、ガリラヤの中の闇に住まなければならないような人々に光が昇ったのです。その人々は、社会から排除され、蔑まれ、除け者にされていた人たちです。そのような人たちに光が昇るとはどういうことでしょうか。

「光が昇る」ということは、その人たちを光が照らすということですね。闇に思えるところを神が照らすということです。つまり、社会において闇に思えるところが神の光が照らすところであり、社会的に光だと思えるところを神は照らしていないということです。社会とは別の価値観の世界が開かれたということでもあります。また、社会の価値観を覆す光が昇ったということでもあるでしょう。ヨハネにとっての不幸に思えることやイエスにとっての弱さに思えることが光が昇るために起こったということです。そう考えてみますと、イエスを通して闇に思える地を神の光が照らしたということがイザヤの預言の成就なのです。

しかし、この光を光として認め、受け入れるのは、死の陰の地に住む人たちだけです。命に溢れていると感じる人たちには、イエスの姿は情けない逃亡者でしょう。反対に、死の陰の地に住む人たちにとっては、自分たちと同じ弱さを身に帯びながらイエスがそこに来てくださったことが重要なことになります。イエスが来てくださったことが幸いなことなのです。そのような意味において、イエスは光なのです。

イエスは、落ちていくような逃避行においても、昇り来る光なのです。落ち延びて行くような道でも、昇り来る光なのです。死の陰の地に置き去りにされているような人たちにとっては、イエスが落ち延びていくことが幸いな光が来てくださった出来事なのです。それが、預言者イザヤが語った神の意志だった。ヨハネの不幸もイエスの情けなさも、神がご意志を実現するために起こったことなのです。そうであれば、わたしたちに起こってくる如何なることも、神の意志が実現するためにあると言えます。

もちろん、そのように理解したとしても、わたしにとっては不幸であり、ない方が良いと思える出来事でしょう。それでもなお、その出来事の上に、神の意志があるのです。その出来事の中で苦しむわたしを神が放っておくわけではありません。わたしを神が用いて、ご意志を実現なさる。だとすれば、わたしは不幸においても、苦難においても、神に用いられる器なのです。わたしに起こることに、神の意志があると信じる者には、不幸も不幸ではなくなります。神の意志が実現するきっかけになります。わたしの不幸に思える出来事も神の意志が実現する器になります。

イエスご自身も、ガリラヤに逃れることはほめられたことではないと思ったかも知れません。ヨハネの不幸から自分が逃げていると思えば、自分を情けなく思ったかも知れません。しかし、そこにおいて神の意志が実現するのです。情けなさも哀れさも、不幸や苦難も神の意志の実現のためにある神の出来事なのです。わたしにとっては、ない方が良くても、神の意志がそこにある限り、わたしは不幸ではない。わたしは幸いにも神に用いられている。わたしはいかに愚かであろうとも、神の意志の器とされている。

ただ、わたしの不幸と、洗礼者ヨハネの投獄は少し違います。洗礼者ヨハネは、神の意志に従うことを優先したために、捕まったのです。わたしは自分の都合しか考えず、不幸になったかも知れません。それでもなお、不幸に思えることに神の意志があると受け止め直すとき、生き方の方向転換、悔い改めが起こるのです。「悔い改めよ。天の国は近づいた」とおっしゃるイエスの言葉が聞こえてくるのです。今までの価値観から離れて、神の意志という価値の中で生きなさいとイエスは言うのです。天の国はあなたの近くにあるのだからと。このイエスの言葉を聞いているあなたは幸いな人です。あなたが死の陰の地に生きているとしても、昇りくる光に照らされている幸いな人なのです。

祈ります。

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