「うわさの網」

2023年1月29日(顕現節第4主日)
マタイによる福音書4章18節〜25節

「イエスの評判がシリア中に広まった」と記されています。「評判」と訳されている言葉は直訳すれば「聞こえ」です。「聞こえ」というのはいわゆる「うわさ」のことですね。良いうわさなので「評判」が広まったと訳されているわけですが、「広まった」という言葉は「出て行った」という意味です。「うわさが出て行った」ので、「広まった」と訳されているわけです。出て行った「うわさ」が人々をイエスのところへ連れてきたということです。つまり、この「うわさ」が人々を集める網のような働きをしているわけです。

弟子たちはイエスから呼ばれたとき、こう言われていました。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と。原文では「人間の漁師」となっていますが、この言葉は二通りに解釈することができます。一つは「人間である漁師」です。もう一つは「人間を魚のように集める漁師」です。ペトロたちは、自分が網を投げるだけの機械のように思っていたかも知れないと思います。網を投げる機械があれば、それで十分なのではないか。自分は機械のようなもので、自分が動けなくなったならば他の人が代わることができるだろう。そうであれば、自分は取り替え可能な機械の部品のようなものではないかと考えていたかも知れません。そのような彼らのやるせ無さをイエスは見て取っていた。それで彼らに言うのです。「人間である漁師にしよう」と。

また一方で、彼らが道具のように思っていた網を捨てて、イエスに従ったのですが、捨てた網の代わりにイエスの「うわさ」が出て行って、人々を集めてきたのです。だとすれば、ペトロたちは魚を獲る網を捨てて、人間を獲るイエスの「うわさ」という網を取ったのではないでしょうか。彼らが手に取っているのは、自分たちが投げなければならない網ではなく、網そのものが出て行って集めてくる網、「うわさの網」なのです。だとすれば、彼らは自分の道具を捨てて、自分も道具ではなくなり、イエスの「うわさ」の網の力で集まってきた人たちと一緒にイエスを仰ぐ人間になったのでしょう。彼らは、自分たちが何かをするのではなく、何もできないけれど「うわさの網」が集めてくる人々と一緒に生きる人間として作られたのです。「あなたがたを人間たちの漁師たちとして、わたしが作るであろう」とイエスがおっしゃったのはそのような意味ではないでしょうか。

わたしたちは、何かを作ることが仕事だと思っています。ペトロたちも、自分たちが何かを作るのではなく、ただ網を投げて、たまたま集まった魚を水揚げしている自分自身が何者なのかと考えていたことでしょう。何も作っていない人間。何かをしているようで何もしていないように思える人間。それが人間なのだろうかと、彼らは考えていたのかも知れません。しかし、イエスが彼らを弟子にしたとしても、彼らが何かを作るわけではありません。網を投げるわけでもない。普通の漁師よりも仕事などしていないのです。イエスの「うわさ」が出て行って、人々を集める。そうであれば、以前よりも何者でもないと思えます。ところが、彼らはイエスの「うわさ」が網となって集めた人たちと一緒に人間らしく生きる道を歩むのです。

イエスの「うわさ」が集めてきた人たちは、どのような人たちかと言えば、社会から排除されていた人たちでした。原文で見れば「あらゆる種類の病気や痛み苦しみを最悪な状態で持っている人たち」、「悪霊に苦しめられている人たち」、「発作のある人たち」、「麻痺している人たち」などでした。彼らは、体の苦しみと精神的苦しみとを抱えていました。それに追い打ちをかけるように、社会からも追い出されてしまう。体と精神と社会的場所が破壊されている人たちが、イエスのところに集まってきたのです。いえ、彼らが集まってきたというよりも、彼らはイエスの「うわさの網」によって集められた人たちだったのです。

彼らには居場所もなく、行くべきところもありませんでした。体が言うことを聞かないだけではなく、居場所がない。そのような人たちがイエスの「うわさ」を聞いて、網に捉えられ、イエスのところにやってきた。ペトロたち弟子と同じように、自分は人間なのだろうかと思っていたことでしょう。生きている意味があるのだろうかと思っていたことでしょう。このような人々がイエスの「うわさの網」によって集められた。この網に捉えられた人たちは、社会の中心にはいませんでした。社会の外側、周縁にいたのです。そこは社会という海の深み。社会の深い闇の中で座しているしかない人々。そのような人々をイエスの「うわさの網」は捉えたのです。

先週、ヨハネが引き渡されたことで、ガリラヤへ逃げたイエスが落ち延びていくことで大いなる光が闇を照らしたことを見ました。社会の中で栄光に輝いている人々の外側で、闇は静かに漂っているのです。誰にも知られないように漂っている闇。絶望が次第に支配していく闇。そのようなところにイエスが来られる。イエスが来られることで、闇は光となり、光が闇となる。この反転した世界の中心にいるのは、イエスご自身です。イエスも社会から追い出され、落ち延びてきた人間でした。でも、落ち延びることにも意味があった。イエスという光を神がガリラヤの闇へと派遣するという意味があったのです。ヨハネやイエスにとって不幸に思えることに神の意志が働いていた。そうであれば、イエスの「うわさの網」に捉えられた人々もまた神の意志に従って集められたのです。彼らのために、イエスはガリラヤへ逃れたかのようです。そして、彼らは癒された。それが、彼らの上に大いなる光が昇ったということです。

わたしたちもまた、ここに出てくる人々と同じく弱い存在です。社会の中心にいる人々からは軽く見られ、存在すら忘れられています。「国民」という言葉で表されるのがわたしたちです。どこの誰々として生きていたはずなのに、そこから落ちこぼれてしまった存在です。だからこそ、わたしたちはイエスの「うわさの網」に集められたと言えるでしょう。わたしが社会の中心にいたならば、網にかかりもしなかったでしょう。いえ、イエスの「うわさ」など気にもしなかったでしょう。イエスの「うわさ」はわたしの耳に入っても、すぐに出て行ったでしょう。ところが、このわたしはイエスの「うわさ」を受け入れた。イエスに従ってみようと思った。その思いをわたしのうちに起こしたのは神です。神が起こした思いがわたしのうちから出て行って、また他の人に伝わる。伝えようとせずとも伝わる。伝えるときには、わたしは裸の自分で伝えることができる。闇に座していたわたしが立ち上がる力をいただいたと。そして、「うわさの網」が出ていくことになる。わたしたちが宣教と呼ぶ事柄は、このイエスの「うわさの網」が出て行くことなのです。

わたしたちが投げるのではなく、網そのものが出て行く。イエスの「うわさの網」はわたしの信仰の素晴らしさを伝えはしません。わたしは闇に座しているしかない哀れな自分しか語り得ないのです。いえ、わたしが座している闇にイエスが来てくださったとわたしは語るのです。哀れなわたしのところまで、イエスの「うわさの網」が届いたと語るのです。わたしの信仰によって、わたしの素晴らしい今があると語るのではありません。わたしの不甲斐なさの闇に、イエスという光が来てくださったと語るのです。わたしはどこまでも罪深く、哀れで、愚かな存在だと語ることによって、イエスの光は輝くのです。これが「うわさの網」が出て行った結果です。わたしの今は、「うわさの網」に捉えられた今です。わたしにできることと言えば、「わたしを捉えてくださった網は素晴らしい」と神を讃美することだけです。わたしは弱かったけれど、神は強かったと告白するだけです。

今日、共にいただく聖餐は、このお方イエス・キリストの体と血です。イエスご自身がわたしを捉え、わたしのうちに入ってくださる。それが聖餐です。イエスに入っていただくほど、わたしの闇は深いけれど、もはや座している必要はないと立ち上がり、歩いて行きましょう。イエスはあなたのうちで力となってくださいます。祈ります。

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