「塩と火の光」

2023年2月5日(顕現節第5主日)
マタイによる福音書5章13節〜16節

みなさんは塩を踏みつけたことがありますか。普通、塩は味付けに使うものだと、わたしたちは思っています。それから、防腐剤のようにも使えると思っています。また、ルカによる福音書では畑の肥やしと言われています。日本には盛り塩というのがありますが、掃き清めた門口に盛っておく塩ですね。汚れが家に入り込まないように玄関の前に置くのですが、踏みつける人はいません。イエスの言葉は、現代のわたしたちには理解できない文化を表しています。

イエスの時代には、土で作られた炉がありました。日本でも昔は炉がありましたね。朝起きたら、最初に炉に火を焚べる。その炉に火を焚べるときに使ったのが、イエスの時代には塩の板だったということです。塩の板が導火材だったのです。そして、塩気がなくなると導火材の役割をしなくなるので、足で踏みつけられて、使えない塩として捨てられたそうです。「地の塩」という言葉にはそのような意味があります。

夕方になって、暗くなると、炉から火を取って、ランプに火をつけて、部屋の灯りとしました。塩によって点いた火から灯りとしての光が生まれる。「塩と火の光」ですね。

塩の話と灯りの話の間に、山の上の町の話が挟まれています。山の上にある町は隠れることができません。それはあるがままの姿で、遠くからでも見える。その町に行こうと思えば、ずっとその町を仰ぎながら歩いていく。まるで、光のように山の上に建っている町。エルサレムもそうでした。だから、部屋の中の灯りのようにすべての人を照らすという言葉につながっています。エルサレムの神殿はすべての人を照らす光として建てられたからです。

塩はエルサレムの麓の死海で取れました。死海周辺は塩の柱ができるほどの岩塩の地盤でした。そこから切り出した塩の板が導火材になったのでしょう。そのような時代にあって、イエスはご自分の周りに集められてきた人たちに言うのです。「あなたがたは地の塩である」、「あなたがたは世の光である」と。それは、あなたがたには地の塩のような役割がある。あなたがたには世の光のような役割がある。という意味でしょう。誰かに火を点けるような役割。誰かを照らす光。どちらも自分のために生きているわけではありません。どちらも誰かのために存在している。誰かが立ち上がるための塩。誰かが歩き続けるための山の上の町。誰かが闇の中で沈み込むことのないように照らす灯り。誰かのために存在しているあなたがたなのだとイエスは言うのです。そのあなたがたとは、前々から言っていますように、「闇の中で座している人たち」であり「死の地と陰の中で座している人たち」です。病という弱さの中で、どうにもしようがない人たち。行き場のない人たち。居場所のない人たち。そのような人たちに向かって、イエスは言うのです。「あなたがたは地の塩である」、「あなたがたは世の光である」と。

どうして、このような自分たちが誰かの役に立つのだろうか。「あんな風にならなくて良かった」と胸を撫で下ろす役には立つかもしれないけれど、と思ったでしょう。あるいは、自分たちは、病になって、弱くなって、役に立たないと外に投げ捨てられ、足で踏みつけられている塩の板だと思ったかもしれません。しかし、イエスはたとえ塩味がなくなって踏みつけられるとしても、あなたがたは誰かの役に立っている存在なのだとおっしゃっているのではないでしょうか。踏みつけられても、役に立たないと言われても、「あなたがたは世の光である」とおっしゃっている。それは、神さまが用いるのであって、あなたがたは造られたままにあることで、用いられるのだとおっしゃっているのです。

わたしたちは、役に立つ人間にならなければと考えます。役に立つ人間になることで、人から評価され、さらに用いられるだろうと考えます。役に立つというのは、わたしが評価されているかどうかだと考えます。しかし、イエスは当時の社会の中で、造られたままに存在している塩の板を語ります。置かれたままに建っている山の上の町を語ります。家の中に、誰かが置く灯りを語ります。それらは、自分で輝いているのではありません。自分で光を照らしているのでもありません。そのように作られ、置かれたから、そのように存在している。それが塩の板であり、山の上の町であり、部屋の灯りなのです。

塩は塩です。町は町です。灯りは灯りです。そして、あなたがたはあなたがたなのだと、イエスはおっしゃっているのです。病の弱さがあっても、あなたはあなたである。罪人として蔑まれても、あなたはあなたである。役に立たないと言われもて、あなたはあなたである。塩が塩であることで、他者のために用いられているように、あなたがあなたであることで他者のために用いられているのだ。神によって用いられているのだとイエスはおっしゃっているのです。

わたしたちが塩になるように求めているのではありません。わたしたちが山の上の町になるように求めているのでもありません。わたしたちが部屋の灯りになるように求めているのでもありません。塩のように、町のように、灯りのように、神によって造られたままで、あなたは役に立っているのだとイエスはおっしゃっているのです。

社会的に評価されることがないとしても、あなたがたは素晴らしいのだとイエスはおっしゃっているのです。神が今のあなたを造っておられるのだから、素晴らしいのだとおっしゃっているのです。地の塩であり、世の光であるのは、神があるようにしてくださったからなのだとおっしゃっているのです。あなたは、弱さで何もできないと落胆する必要はない。地の塩が自らに落胆しても、塩は塩である。灯りが誇っても、灯りである。良く見える町は、ただ建っているだけで灯りのように役に立っているのだ。神は一人として役に立たない存在をお造りになってはいない。どのような状態であろうとも、あなたは他者のための存在なのだ。たとえ、蔑まれても、他者を励ます役に立つということではないのだ。蔑む者はいずれ蔑まれる者となって、ようやく自らを知るようになる。所詮、何者でもない存在だったのだと知るようになる。それでも、神はわたしを用いてくださっていたと知るようになる。あなたがたは、その人たちよりも先に何者でもないことに目が開かれている。これも幸いなのだとイエスはおっしゃっているように思います。

人間社会においては、何者でもないけれど、神に造られた者としては塩の板、山の上の町、部屋の灯り。それぞれは、自分の役割を知って、働いているわけではないのです。造られたままに、そうであることを生きている。そこに存在している。それだけです。神はそのような存在を造り、用いておられる。この神の世界の中で、一つとして失われるものはない。一つとして、役に立たないものはない。もし、役に立たないとすれば、他者を役に立たないと批判する存在でしょう。その人は、自分をも役に立たないものとしてしまうのです。自らが何者でもないと知る者こそが、神に用いられる存在なのです。神の役に立っている存在なのです。だからこそ、イエスは最後にこうおっしゃっています。「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」と。「立派な行い」と訳されていますが、「美しい働き」が元々の言葉です。神のご意志に美しく調和した働きのことです。それが、何者でもないわたしを生きること。何者でもないけれど、神がこのように造られたと、自分自身を生きること。その姿こそが美しく神の意志に調和した姿です。そのように生きるとき、わたしたちは自由です。社会の価値観から解放され、蔑みから解放され、闇からも解放されて、自分の光を輝かせることができるのです。塩は火のためにあり、火は灯火のためにある。同じようにあなたにも与えられた役割がある。与えられた存在としての自由がある。この自由を、神に従う自由として生きていく者でありますように。塩と火と灯火のように生きていく者でありますように。

祈ります。

Comments are closed.