「事実を越え出る悪」

2023年2月12日(顕現節第5主日)
マタイによる福音書5章21節〜37節

みなさんは、事実を見ることができると思いますか。西田幾多郎という日本人の哲学者は「純粋経験」ということを考えました。物事を何の先入見もなく、判断することなくありのままに受け取ることを「純粋経験」と言い表しました。しかし、この「純粋経験」は人間には困難です。わたしたちは自分の目で見たことを、自分が受け取るときに、自分の判断を加えてしまいます。「それはあなたの感想ですよね。」という言葉が流行りましたが、わたしたちは事実をそのままに受け取ることができないのです。感想が入り込んでしまいます。ですから、二人の人が同じ事実を別々に解釈することが起こるのです。今日のイエスの最後の言葉は、この解釈を加えないで事実を事実として受け取ることを語っています。「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」

この言葉の前に語られている事柄はいくつもありますが、他者を馬鹿と言うことや淫らな目で女性を見ることや離縁することなども、見る人や行為する人の価値判断が入っているということです。それなのに、わたしたちは自分が客観的に判断していると思い込んでいます。

自分の立場が何もない客観などということは、わたしたちにはあり得ないのです。誰でも、自分の価値観の中で物事を見て、判断しています。神のみが人間の立場から離れた絶対的な客観に立っていると言えますが、人間には客観はないのです。それぞれに持っている立場があります。だから、事実を事実のままに見ることができない。イエスは、そのような人間のうちに働いている悪のことを「それ以上のことは、悪い者から出るのである」と言うのです。

「それ以上のこと」と訳されているのは、「これらのことを越え出ること」が原文です。「これらのこと」というのは「然りは然り。否は否。」ということです。この言葉には価値判断はありません。ただ「そうであることをそうであると言う」、「そうではないことをそうではないと言う」だけなのです。これを越え出るものは「悪から」生じているとイエスはおっしゃっています。イエスが言うのは、わたしたちのうちに宿っている原罪がこのように働いているということです。

ここで「越え出る」と訳しましたが、ギリシア語では「溢れる」や「越える」という言葉です。「溢れる」ということは豊かさを表すこともありますね。しかし、ここでは豊かさではなく悪だとイエスさまはおっしゃっています。旧約聖書のヨブ記38章11節には、このような言葉があります。「ここまでは来てもよいが越えてはならない。高ぶる波をここでとどめよ」と神さまはおっしゃっています。人間はどうしても、越え出てしまうのです。神が定めた限界を越え出てしまうのです。

この越え出る悪は、「然り、然り」「否、否」を越え出るわけですから、事実を越え出てくることです。事実は事実ですが、そこに自分の価値判断が入り込むことで、事実ではなくなるのです。そして、誓うという事柄も、誓う人間が誓ったことを果たすことができると思い込んでいる思い上がりがあるということです。誓ったことを果たすことができるかどうかは自分にも分かりません。できると思い込んではいても、できないということもあるわけです。それなのに、「誓いを果たします」と誓う。しかも、自分が創り出すこともできないものである「頭にかけて」誓うと言うわけですが、イエスは「髪の毛一本すら、黒くも白くもできないのに」と言っています。そのような自分の力を越えているものにかけて誓うわけですから、自分を知らないとしか言えません。自分の力を越えているものですから、事実を越え出ている。それが悪から生じるのだとイエスはおっしゃっています。

この悪というものは、罪の結果わたしたちのうちに働くようになったものです。わたしたちが神の戒めを越え出てしまったからです。神さまがおっしゃることを越えて、自分の思いに従って行った結果が、原罪です。原罪に陥った後、わたしたちは他者に責任転嫁するようになりました。また、神さまにも責任転嫁しています。このような状態に陥っているのが、わたしたち人間です。

素直に、純粋に、神の言葉を聞くことができなくなってしまいました。神の言葉を聞いたとき、「あ、わたしのことだ」とか「そうそう、わたしはこんな風だ」と考えないで、他人のこととして考えるのです。現代のSNSでも、他人を貶めることばかりが行われています。自分がしたことならば、「そんなことくらい」と思うでしょう。でも、他人がしたことならば、「そんなことをして」と言うのです。このような人間であるわたしたちが、どうやって事実を事実として認めることができるでしょうか。自分の価値判断を無しにして、あるがままの事実を認めることができるのでしょうか。事実を認めるということは、わたしが持っている価値観を捨てて、純粋に「あったことはあったこと」として受け止めるというだけですね。それができないのが人間です。

では、わたしたちは救われないのでしょうか。確かに、わたしたちは、自分自身が救われ難い人間であることを認めなければならないのです。それが、イエスが今日のみことばで語っておられることです。ここで指摘されている事柄は、すべて自分の姿であり、自分のうちに同じものが働いているのだと、受け入れるように、イエスは語ってくださっているのです。

しかし、この言葉を語りかけられている人たちは、貧しく、悲しみに沈む人たち、病の人たちです。その人たちが、さらに自分の至らなさ、罪深さを受け入れなければならないのでしょうか。殺すなと言われても、殺すことができる力はない人たちですから、彼らは殺すこともできないのです。だからこそ、彼らにしてみれば、心の中でイヤな相手を「バカ」と言い、心の中で「愚か者」と言うでしょう。それで、馬鹿にされている鬱憤を晴らすということがあるでしょう。その相手のために、祝福を祈ることなどできるわけがないと思うでしょう。だから、心の中で言うことくらい大目に見てもらいたいと思うでしょう。イエスは、そのような彼らの気持ちをご存知です。誰でもそう思うだろうと、イエスは分かっておられる。

これらの言葉の前に、イエスはこうおっしゃっています。「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」と。虐げられている側だからと言って、神さまは大目にみてくださると思ってはならないということです。そして、彼らの義が律法学者やファリサイ派の義に優っていることを求めておられる。優っているという言葉は、今日の日課で使われている「越え出る」という言葉です。だとすれば、越え出るべきは、義しさであるとおっしゃっていることになります。事実を越え出て、自分の側に有利に運ぶようにするのではなく、あくまで義しいことを内面にまで自らが問うということでしょう。そうなると、わたしたちは誰も批判できないことになります。心の中で、相手を馬鹿にして溜飲を下げるということもできなくなります。そこまで自分自身を厳しく見つめるようにとイエスは勧めているのです。

わたしたちが事実を曲げてしまわないためには、自分に厳しくなるしかないのです。そして、自分が客観的に立つことができない存在であることを認めることによって、事実を事実とすることができる。それが「然りは然り」であり「否は否」なのです。自らのうちに働く悪に対して、事実を認め受け入れるならば、わたしたちは律法学者やファリサイ派の義を越え出て、神の前にあるがままの罪人として立つことができるということです。このように立つ人を神は受け入れてくださる。神の愛で包んでくださる。あなた自身のあるがままで塩や灯火として用いられるように、あなた自身のあるがままの罪深さを認めるとき、あなたは神の愛を受け取っているのだとイエスはおっしゃっているのです。イエスは、こんなにも罪深いわたしのために十字架を負ってくださったのです。越え出る悪に支配されないように祈りつつ生きて行きましょう。

祈ります。

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