「今を聞く」

2023年2月19日(主の変容主日)
マタイによる福音書17章1節〜9節

今日の聖書の中で、光は「白」と表現されています。どこの文化においても、光は白いと感じられるものです。光に照らされたものは影ができていますし、色が分かりますので見えるのですが、光そのものは「白」と表現することしかできない。つまり、光を見ても何も見えないということです。

イエスの全体が白く輝いたということは、イエスが光そのものだったということですね。ところが、しばらくするとモーセとエリヤとイエスの三人が見えるようになったのです。モーセとエリヤが現れたので、イエスも見えるようになったわけです。この出来事が意味しているのは、イエスご自身を見ても、分からないということです。この箇所の直前には、イエスの最初の受難予告が行われています。しかし、弟子たちはその言葉が分かりませんでした。イエスの言葉を短絡的に理解したペトロは、イエスを諌めて、叱られています。その出来事に続いて、山の上での主イエスの変容の出来事が起こりました。そこで光り輝いているイエスご自身が見えなくなったということが示されていますので、これは弟子たちがイエスを見失ったことを表していると考えるべきでしょう。

イエスが分からなくなった弟子たちがイエスを再確認したのは、モーセとエリヤが現れたからです。つまり、イエスを過去の預言者たちの代表と比較することでイエスを理解したと言えます。ところが、そのように理解した弟子たちを輝く雲が覆います。そして、最後にイエスだけが見えたと記されています。この出来事が示しているのは、過去との比較においてイエスを理解しても本当の理解には至らないということです。モーセもエリヤも有名な預言者たちですが、イエスは彼らと同列ではないということです。そして、過去との比較によっては、イエスを正しく理解することはできないということです。では、どのように理解すれば良いのか。それが最後の言葉です。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」と雲の中からの声は言いました。「これに聞け」と訳されている言葉は、「彼のことを聞け」です。つまり、彼イエスのことを聞けと雲の中の声は言ったのです。それはどういう意味でしょうか。

「彼のことを聞け」という言葉が述べているのは、「彼に属する事柄」を聞くということです。その「彼に属する事柄」とは何かと言えば、十字架と復活ですね。イエスがこれから経験する十字架と復活は、モーセやエリヤが経験したこともない出来事なのです。だから、モーセとエリヤと比較して、イエスを理解しようとしても理解できないということです。それで雲の中の声は言ったのです。「これに聞け」と。ということは、イエスは過去を超えた存在だということです。過去から理解しようとしても理解できないということです。

モーセとエリヤはイスラエルの偉大な預言者たちです。彼らは、迫害も受けましたが、イスラエルを約束の地に導き、真実の神ヤーウェに従うように諭した人たちです。エリヤは、モーセと同じような不思議な業を行なっています。後継者のエリシャに自らの働きを委ねるとき、ヨルダン川の水を分けたのです。そして、エリシャが見ている前で、天に上げられました。モーセも後継者ヨシュアに引き継いで天に召されました。彼らは、あくまで人間でした。後の人に譲って、召されて行きました。この人間であるモーセとエリヤと比較することでイエスを理解したと思っても、それは違うのだと輝く雲が弟子たちを覆ったのです。過去にこだわっていても、今目の前に生きて働いておられるイエス・キリストは理解できないということです。だからこそ、雲の中の声は言うのです。「これに聞け」、「彼に属する事柄を聞け」、イエスの十字架と復活を通して語られている神の意志を聞けという意味でしょう。

イエスの十字架と復活は、これから起こることです。過去に起こったモーセやエリヤの出来事をもとにしてイエスを理解しようとしても理解できないのです。むしろ、これから起こること、今目の前に生きているイエスに属する事柄を聞くことしか、弟子たちにはできないということです。

わたしたち現代の人間にとっては、聖書が語っているイエスの十字架と復活の出来事は過去に起こった出来事のように思えるでしょう。昔、このような人がいたと聖書を読む人もいるでしょう。しかし、それではイエスに従うことはできないのです。今生きておられるイエスを聞く人がキリスト者なのです。わたしたちキリスト者は、過去に起こった十字架を信じているのではありません。今、わたしのために十字架を負って、復活してくださったイエスを信じているのです。イエスの十字架と復活は、わたしたちキリスト者が「これは今のわたしのためにある」と信じる神の意志、神の出来事なのです。イエスの十字架と復活は、過去の出来事ではありません。今まさに、あなたの目の前にある出来事なのです。

イエスの今を聞くということは、わたしたちが常に罪の中に落ち込んでしまうからです。わたしたちは、わたしの過去において、キリストの十字架と復活を信じて救われました。ところが、救われた後、再び人間的、地上的事柄に縛られてしまうことも起こります。そして、イエス・キリストの救いの出来事をすっかり忘れてしまうものです。だからこそ、わたしたちは、毎週の礼拝を通して、イエス・キリストの十字架と復活が今まさにわたしのために起こっていることを確認するのです。

わたしたちは、過去に囚われていますが、過去は過去です。今を理解するということはわたしたちにはできません。わたしたちが理解するのは、今起こっていることが過去になった時点です。出来事が起こっている最中には、わたしたちは何も分からないのです。光そのものが分からないのと同じです。光に照らされたものならば分かる。光の中にある今は分かりません。わたしたちが理解するのは過去なのです。ということは、わたしたちは過去を理解するような生き方ではなく、光の中で見えないとしても、聞こえてくる声に従うということしかできないということです。それが「これに聞け」と雲の中の声が語ったことです。

今目の前に起こっていることには、神の意志がある。それを理解しようとして、過去にしてしまうのではなく、今聞くということです。理解するためではなく、生きるために今を聞くということです。イエスに従って、イエスの今を聞く。それは、わたしに関わってくださっている今を聞くことです。今起こっていることは、光そのものと同じく、見えないのですから、見えなくても、理解できなくても、神の意志として受け入れ、従うということです。そのように従う中で、イエスの十字架と復活の出来事がわたしに起こってくるということです。

イエスご自身も、ご自分を規定しませんでした。聖書の中では、イエスご自身は自分のことを「メシア」、「キリスト」とは決して言っていません。イエスはご自身を規定しなかった。そうであれば、わたしたちもイエスに従うのであれば、自分を規定しないことです。自分はこうでなければならないのではありません。神が今もわたしを創造しておられるのですから、過去にこだわる必要もありません。自分が思うようでなくても、かつてのようでなくても、今のわたしが生かされているのです。今のわたしを神は造ろうとしておられるのです。それだけが、確実な今だと受け入れることです。そのような在り方、生き方が、イエスの今を聞くということです。イエスがゲッセマネで祈った祈りも同じです。すべてを神の意志に委ねて、今受けるべきことを受ける。それだけがイエスが十字架を前に、わたしたちに示してくださった生き方です。

今週の水曜日から四旬節、受難節が始まります。この四旬節の間、主の十字架と復活の出来事を通して示された神の意志は、今を生きるわたしのためにあるのだということを確認しながら過ごしていきましょう。今日、共にいただく聖餐は、神の意志を受け入れ従ったお方の体と血です。あなたが神の意志に従う者となるために与えられるキリストご自身を、感謝していただきましょう。

祈ります。

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