「富ある心」

2023年2月22日(聖灰水曜日)
マタイによる福音書6章1節〜6節、16節〜21節

今日の日課には、「隠れたところ」や「隠れたこと」という言葉が出てきますが、この言葉が示しているのは、人間は隠れるということです。隠れる姿は、アダムとエヴァの堕罪のときに現れました。面白いのは、隠れていることが明らかになるという逆説ですね。隠れれば、隠れていることが分かる。だとすれば、隠れていても、隠れていなくても、同じだと言えます。それなのに、どうしてわたしたちは隠れてしまうのでしょうか。

人前では、良い子の振りをしていますが、陰で悪口を言っている。その人の前では、親しそうに接するのに、その人の前を離れると、「ああ、嫌だった」と愚痴る。これは当たり前のことのように思えます。誰でもそうでしょう。本音を言ったら、それを聞いた人から「なんて人」と思われる。だから、本音は言わないで、隠しておく。そして、心の中で、陰で、愚痴を言う。あるいは、陰で、誰かを批判する。社会で自分を良く見せるためには、こうするしかない。これがわたしたちの現実です。

苦しいときに、明るい顔をしていても、自分が苦労していることを理解してもらえない。だから、苦しい顔をする。断食の際に、「わたしは断食していますよ」と人に知らせるために、苦しい顔つきをするというのも同じですね。見てもらうこと、評価されるようにすること、これがわたしたちの在り方です。また、どんなに落ち込んでいても、「あなたのお陰で助かった。ありがとう。あなたがいてくれて良かった」と言われると、落ち込んでいたわたしが途端に明るくなりますね。そして、自分は何か良い人間であるかのように思えてきます。神さまは、わたしの味方だと思えてきます。これも同じです。

しかし、イエスはおっしゃっています。そのような状態は「すでに報いを受けている」状態だと。さらに、「隠れたところにおられるあなたの父に見ていただきなさい」ともおっしゃっています。そうすれば「隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」と。つまり、人間に見てもらうことを求めるなということであり、神に見てもらうように努めなさいということですね。でも、それでは結局、神にほめてもらうために生きているようなもので、人間が神に代わっただけではないかと思えます。イエスはそのようなことをおっしゃっているのでしょうか。

「報いてくださる」という言葉は、ギリシア語ではアポディドミという言葉です。この言葉は、借りていたものを「返す」、「元に戻す」という意味が基本です。「その人に当然返されるべきものが返される」ことを意味しています。つまりは、その人のものが神に献げられて、その人が持っているべきものとして再び与え返されるということです。そうであれば、この言葉が意味しているのは、ご褒美ではありません。「報い」と言うと、ご褒美のように思えてしまいますが、その人が先に持っていて、神に献げたものが返されるとすれば、ご褒美ではありません。ここでイエスがおっしゃっているのは、祈る人や断食する人が持っていたものが返されるということになります。その人に与えられるべきものが返されるとすれば、祈った通りになるとも言えません。断食も祈りを伴いますが、その祈りの通りになるとも言えません。受けるべきもの、持っているべきものが返されるのです。だからこそ、イエスはこうおっしゃっているのです。「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」。わたしの富が、天の父の許にあるならば、その富はわたしに返される。その与え返される富はわたしの心だということではないでしょうか。

「富」と訳される言葉は、「倉」という言葉です。通常、倉というものは宝を蓄えておくものですから、倉そのものも宝なのです。それで、「富」と訳されるのですが、「富」は宝をたくさん積んで蓄えることですね。では、積んで蓄える「宝」とはいったい何でしょうか。イエスの話の流れから考えれば、「見えない」ものです。「隠れたところ」にある「宝」です。だとすれば、物質的な「宝」ではないことは明らかです。まして、「心」とつながっていますので、わたしたち一人ひとりの内なるものです。人に見せることができない「隠れた」宝ですね。それは「心」そのものではなく、わたしの心が向いているところ、向いているお方が「宝」だという意味でしょう。そして、その「宝」に向いている「心」はわたしの生き方の中心でもあります。わたしが生きる上で、中心としているもの、中心としているお方、そのお方が「宝」であり、わたしの心がそのお方で満たされているならば、わたしはそのお方に向かって生きているということです。

アウグスティヌスという5世紀の神学者はこう言っています。「神さま、あなたは人間を呼び起こして、神さまを讃えることを人間の喜びとしてくださいました。なぜなら、神さまがわたしたちを神さまに向けて造ってくださったので、わたしたちの心は、神さまのうちに憩うまで、安らかではないのですから」。人間の平安、安らぎは、神のうちに憩うことだとアウグスティヌスは言っています。これが、イエスがおっしゃる「天の倉」に収められた「宝」でしょう。わたしたちが求めているのは、「安らぎ」です。「安らぎ」を得るために、わたしたちは他人の評価を求め、他人に認めてもらおうと躍起になります。しかし、わたしたちの心の奥を探ってみれば、他人からもらう「評価」や「賞賛」というものは長続きしません。不安になって、何度も求めてしまい、ついにはうるさがられます。「また?」と言われることにもなります。それは、わたしが持っていないと思っているものを獲得しようと躍起になっているからです。でも、イエスは、あなたがすでに与えられて持っているものを神に献げるならば、あなたのものだと返していただけるとおっしゃっているのです。それは、神さまとあなた自身の心との間でしか成立しないものです。献げたものを「あなたのものだよ」と返していただくとき、あなたは神さまに認めていただいているのです。神さまが「あなた」として見ていてくださるのです。この神さまの眼差し、神さまの贈り物である「あなた」の認識こそが、わたしたちの「宝」でしょう。この「宝」は神さまの許にあるのです。

元々、神さまがあなたに与えてくださっていたものは神さまのものですので、「このわたしは神さま、あなたのものです」と神さまに献げる。そうすると、神さまはあなたを認めてくださり、「あなたに与えたものだからあなたのものだよ」と返してくださる。これが「宝」であるならば、わたしそのものが神さまの「宝」ですね。このように考えてみると、あなたが神さまとの間で取り交わす宝の交換は最終的に、あなたと神さまとを一つにすることになります。それだけで十分なのだと、あなたは神さまに感謝するでしょう。平安ある心で感謝するでしょう。わたしの富は、神さまと神さまが造ってくださったわたしだと喜ぶでしょう。この富を見失ったのが原罪を宿す人間です。そこから救い出されるためには、人間を見ないこと、人間に見せないこと、人間に求めないことが大事なのです。救い出してくださるのは、神のみ。人間は何もなし得ない。見ていてくださるのは、神のみ。この心こそ、「富ある心」です。

今日の聖なる灰の式において、わたしたちは「富ある心」を見出すために、自らの額に灰の十字架を記してもらいます。創世記に記されているように、あなたは土のちりから造られました。ちりに過ぎなかったあなたが生ける魂となったのは、神さまがあなたの鼻に命の息を吹き込んでくださったからです。あなたは生まれることを選択できませんでした。誰の許に生まれるかも、どのようなわたしとして生まれるかも選択できませんでした。あなたのすべては神さまが与えてくださったものです。そのあなた自身すべてを神さまに献げて生きるならば、取るに足りない土のちりが神の大切な人間として生きることができると、イエスは教えてくださっています。自らの儚さに失望することはありません。自らの愚かさに落胆することもありません。ちりに過ぎないあなたを愛しておられるお方がいることを感謝しつつ、四旬節の歩みを謙虚に始めて行きましょう。

祈ります。

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