「人間であること」

2023年2月27日(四旬節第1主日)
マタイによる福音書4章1節〜11節

「人間とは考える葦である」と言ったのは、パスカルですね。動物と人間の違いは、考えるかどうかだということです。動物には本能があると言われますが、シリア・トルコ地震の前に、動物たちが異常な行動をしていたというニュースが入りましたね。しかし、人間は何も感じなかったのです。人間は本能を失った動物だと言う人もいます。その分、人間には考える能力が与えられた。人間は考える能力を使って、危機に備えるということがあるわけです。しかし、危機に備えるだけではなく、悪いことも考えることができるようになったとも言えます。そのような人間が如何に生きるべきなのか。それが今日、イエスが示してくださった在り方です。今日のイエスは、人間であるとは何かを示してくださっているのです。

イエスを荒野に導いたのが、「聖霊」だと最初に述べられています。つまり、神がイエスを荒野に送り出した。しかも、悪魔によって試されるために、「“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。」と言われています。これはどういうことでしょうか。

神がイエスを荒野に導いたのであれば、悪魔による試し、誘惑というものを神が行わせたということでしょうか。神が悪魔を使って、イエスを試験したということでしょうか。おそらく、そうでしょう。とは言え、イエスを通して、人間が生きるということ、「人間であること」とはどういうことかを示すために、神はイエスを荒野に導いた。悪魔の許に導いた。そうであれば、悪魔の誘惑も神のご意志の中にある。神の支配の中にあるということです。悪魔から誘惑されるという出来事が、悪魔の意志のようでありながら、実は悪魔の行為も神の支配の中にあるということであり、その結果も神の支配の下にあるということでしょう。

さて、神の支配の下に、荒野に導かれたイエスを待ち受けていた悪魔は、「神の子であるなら」と近づいてきて、証明を求めています。それなのに、イエスが答えるのは、「人はパンだけで生きるものではない」ということです。イエスは「人」つまり「人間」と言っています。「神の子」とは言っていないのです。イエスは、悪魔の試しに対して、「神の子であること」ではなく、「人間であること」を答えているのです。人間とはどのような存在なのかと答えているのです。

イエスの答えに従えば、人間とは「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」のだから、「あなたの神である主を試してはならない」存在なのです。さらに、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と言われる存在でもあるのです。ここには、人間が「考える動物」であることが明らかです。「神の言葉で生きる」ということが示しているのは、単なる人間の言葉ではなく、神の言葉が人間を生かすのだということですね。これはどういうことでしょうか。

わたしたち人間は、神がご意志を持って造られた存在です。だからこそ、神のご意志を聞く存在であり、神のご意志を自分のこととして考え、従う存在であるということです。わたしたちが生きるということは、人間の言葉に励まされるようなものとは違うということです。神の言葉は、わたしの魂を作る言葉なのです。人間の言葉は、いっときの慰めにはなっても、永遠に生きる力にはなりません。神がわたしに語りかける言葉は、わたしの根源的な自分自身、つまり魂に語りかける言葉ですから、失われることのない言葉です。忘れてしまうような言葉ではないのです。わたしの魂に刻み込まれている言葉でしょう。そのような言葉によって生きるのが人間なのだとイエスはおっしゃっているのです。そう言われても、良く分からないと思うでしょう。確かに、わたしたちは人間の言葉で励まされることがありますから、同じように神の言葉も人間の言葉のように何度も聞かなければならない言葉なのではないか思います。わたしたちはすぐに忘れますからね。しかし、魂で聞いている言葉、魂に刻まれた言葉は、決して忘れることはありません。

イエスが、この荒野での誘惑を受ける前に、洗礼の際に聞いた言葉が記されています。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言葉です。神の愛する子だから、神の子である証明を悪魔は求めたのです。しかし、イエスは人間を代表して、この言葉を聞いたのです。人間は、根源的に神の愛する子であり、神の心、神のご意志に従う存在なのです。その神の愛を見失ったのが、わたしたち人間の原罪、アダムとエヴァの堕罪の結果です。その愛を取り戻させるために、イエスは神によって地上に派遣された。そうであれば、イエスが聞いた天からの言葉は、「人間であること」を取り戻す言葉だと言えます。

わたしたちは、自分が愛されることを求めます。誰からも愛されたいと求めます。しかし、人間同士の間では、すべての人から愛されるということはあり得ません。わたしたちの人間関係には利害が強く働いてしまうからです。自分が仲良くしている人ならば気にしますが、そうではない人のことは忘れています。すべての人に同じように接することができる人は誰もいません。だからこそ、戦争も起こります。このような人間の言葉は根源的な愛を語ることはできません。しかし、イエスが聞いた天からの声は根源的な人間への愛を語っているのです。その根源的な愛に基づいて生きることが「人間であること」だと示すために、神はイエスを荒野の悪魔の試し、誘惑へと導いた。神は、イエスを疑っているわけではありません。むしろ、イエスが神の愛の根源性を生きているがゆえに、悪魔の許に送った。イエスはその神の愛に基づいて悪魔と向き合った。こうして、イエスは悪魔の試し、誘惑を引き受けたのです。

ですから、イエスは神の愛を試す必要はありません。高いところから飛び降りて、試す必要はありません。まして、聖書が語っているのは、飛び降りることではなかったからです。もしも、落ちたとしても、神が支えてくださるということだったからです。その言葉に信頼することが、飛び降りることではないのは明らかです。飛び降りることに潜んでいるのは、神への不信でしかないとイエスは聖書の言葉を用いて答えているのです。神を信頼しているならば、どんな冒険もできる、どんな危険なこともできるということではないということです。自分から危険を求めるのではなく、危険を被ることになっても、神が支えてくださると信頼することなのです。この点から考えてみれば、イエスの受難という言葉が示している事柄と一致します。

受難や受苦(苦しみを受ける)と訳される言葉は、パテーマというギリシア語ですが、これは「被ること」というのが基本的な意味です。苦しみ、苦難というギリシア語はトリプシスと言いますが、この苦難を神が与えたものとして引き受けるとき、パテーマ受難となるのです。そうであれば、この悪魔の誘惑も神が与えたものであることとして、引き受けたイエスがおられることになります。イエスは、この誘惑を引き受けたがゆえに、揺るがないところに立つことができたとも言えます。神の愛の中で引き受けることができたのです。愛してくださるお方を試すことなどないのです。愛してくださるお方に信頼しているならば、他の物質的なもの、この世の権威などに揺れ動くことはないのです。そのためには、イエスのように、ただ神の言葉にのみ耳を傾けるのです。人間の言葉にこそ、この悪魔の言葉のような誘惑が潜んでいるのです。語る人間の方に導こうとする誘惑が潜んでいるのです。そのような言葉に耳を傾けることなく、わたしの魂を創造し、愛してくださる神の言葉のみに耳を開いていくことで、わたしたちはしっかりと立つことができるのです。

わたしたちは、神の愛の言葉をいつも聞くことができる幸いを与えられています。たとえ厳しい言葉のように思えてもなお、あなたを愛するお方の言葉です。このお方の愛は、決して消えることなく、あなたの魂を守ってくださいます。「ただ主に仕える」者として、人間であることを生きていけるようにと神は語ってくださる。その愛の言葉があなたを真実な人間として造ってくださいます。

祈りましょう。

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