「神が備えた未来」

2023年3月5日(四旬節第2主日)
マタイによる福音書20章17節~28節

人間というものは、われ先にと動いてしまうものですね。自分のことは後にして、「どうぞ、お先に」と言う人はほとんどいません。「どうぞ、お先に」と言うとしたら、自分が先に行きたくないことだけでしょう。締め切りが決まっていて、今日行かなければもう取ることができないとなると、先を争って混乱に陥る。2月末にも、そのような人間の性が現れていました。今日の日課の十二弟子たちの姿も同じようです。最初は気にもしていない振りをしていながら、誰かが先に得をしようと走り出すと、全員が憤慨する。浅ましいと言えばそうですが、誰もが同じです。人間という存在は原罪を抱えているために、どうしてもこうなってしまうのです。

弟子たちの中の二人、ゼベダイの息子たち、ヤコブとヨハネの母親が二人の息子を連れて、イエスの前にひれ伏してお願いします。「わたしの二人の息子たちが、あなたの右と左に座るであろうとおっしゃってください」と。それは、「あなたの御国において」と言われていますので、新共同訳は「王座にお着きになるとき」と訳しています。確かに、イエスの右と左ということは、イエスが王座に着いた、その右と左という意味でしょう。イエスの国は天の国ですから、天国でイエスが支配を始めるために、王座に着く、「そのときに」ということです。ということは、イエスの両脇に座るわけですから、イエスと共に天の国を支配する者となるようにと、母は願ったということです。母としては、このように願うのは当然でしょう。

母であるならば、息子たちが存在を認められる者になって欲しいと願います。もちろん、娘についても同じように願うでしょう。偉い人の嫁になって欲しいと。現代では、このように願う母がいても、余計なお世話と言われるでしょうが、イエスの当時ではとてもありがたい母の鏡のような人です。どうして、母までイエスの許にいたのかは分かりませんが、息子たちを思う母はどこまでもついてくるのです。このような母がいない他の弟子たちは、憤慨します。そして、最後にイエスは十二弟子たち全員に言います。「あなたがたの中で、大きな者として生じることを意志する者は、あなたがたの奉仕者として存在するであろう。そして、あなたがたの中で、第一人者として存在することを意志する者は、奴隷として存在するであろう。」と。この未来形の言葉は、「人の子」の生き方と同じことなのだと言います。つまり、メシアは奉仕者であり、身代わりに自分の魂を与える者として生じるであろう言うのです。

イエスが人の子であり、メシアであるならば、そのお方の右と左に座る存在は、メシアと同じく奉仕し、自らの魂を誰かのために与える者だということになります。つまり、二人の弟子たちがイエスの右と左に座るならば、彼らは奉仕者であり、身代わりになるような存在となるであろうということです。二人の弟子たちは、そうとは知らず、イエスが飲む杯を飲むことができると言います。しかし、イエスはそのような立場を与えることは、ご自身のものではないとおっしゃいます。そうではなく、わたしの父によって備えられてしまっている人たちのものだとおっしゃっています。つまり、神が備えたものを受けるのは、備えられた人たちだというわけです。それはまた、神が備えた未来があるということであり、一人ひとりにはその未来へ向かって歩む道があるということでしょう。一人ひとりの未来はそれぞれに備えられているのです。

わたしたちは、いつも自分が考える未来を手に入れようとします。他の人に誇ることができる未来を手に入れたいと思います。自慢の息子や娘が、他人に自慢できる未来を手に入れることができればと願います。わたしたちは、自分が自慢できなくても、息子や娘が自慢できるならば、自分もその親として自慢できると考えるものです。ゼベダイの妻も同じように考えたのでしょうか。息子や娘を思う母の切なる願いでしょうね。ところが、イエスはその願いをあっさり違うと言います。誰も決めることができない未来は、父なる神が決めておられて、備えられた人に与えられるとおっしゃっています。神が備えたものを受けることができるのは、誰かと言えば、すべての人です。なぜなら、すべての人が「同じではない未来」を受け取るようにと備えられているからです。そして、十二弟子たちにも備えられていたのです。イエスと同じように、奉仕者として生じるように、身代わりになる者として生じるようにと、神によって備えられていたのです。しかも、天の国、イエスの御国においては、この世と正反対の在り方がメシアの在り方なのですから、この世の価値とは正反対のことを引き受けるように備えられた人たち、この人たちが天の国に入ると言えるでしょう。

この世では、損な役回りだと思えることを引き受けるように備えられている人。この世では、誰も引き受けたくないと思えることを引き受けるように備えられている人。このような人は、この世では不幸だと思われますね。損な役回りを押し付けられるなんて、何と不幸なのだろうと思われます。ところが、備えられた人たちにとってはそれが必然だと受け入れられるのです。その姿は、進んで損を引き受けるように見えるでしょう。ところが、神が備えた人たちは、神が備えた未来を素直に受け入れるのです。そのような人たちにとっては目の前に与えられたことが神の必然だからです。マルティン・ルターが言うように、「すべては絶対的必然性からなる」のです。だからこそ、神が備えた人であり、神が備えた未来なのです。

そのような人たちは、気負いません。気後れすることもありません。神の必然として、自分に与えられることを素直に受け入れるのです。そのような人たちは、幸いです。この世の価値観からは損だと思われても、可哀想だと思われても、彼らにとっては必然ですから、何も損ではないし、可哀想でもないのです。このように生きることができる人、そのような人が、神が備えてくださった人たちであり、彼らの未来は神のものなのです。

ところが、神の必然は受け入れようと受け入れまいと、わたしたちの目の前に与えられています。わたしたちの前に広がっている世界は、神が備えた未来へ向けて広がっているのです。わたしたちの目の前にある現在は、わたしたちの過去においては未来だったのです。わたしが目にしている今は、未来が現在となっている今なのです。そう考えてみると、わたしたちは常に未来を見ているとも言えます。そして、わたしたちの目の前にある現在は、未来をうちに宿している現在なのです。神が備えた未来を宿している今。それが、このわたしであり、このわたしが生きているということなのです。いえ、神によって生かされているということです。

備えられた未来は、誰にも必然として今与えられています。イエスのように生きることになるイエスの弟子たち、そしてキリスト者も同じように生きることになると言われています。わたしたちは、いずれ来たる天の国において、イエスと同じように互いに仕え、互いに自分の魂を身代わりにするような生き方をすることになる。イエスは、今日そのように教えてくださっています。ここから逃れることはできません。もし、逃れようとするならば、神の意志に反してしまう。イエスの弟子ではなくなってしまう。イエスによって身代わりとなっていただいた恵みを捨ててしまう。天の国に生きることはない。そうなって欲しくないと、イエスは今日弟子たちを諭しました。我先に損をしないようにと生きる生き方は、神が備えた未来を捨てることなのです。神が備えてくださった救い主イエスを捨てることになるのです。そうならないためにも、この四旬節をイエスの十字架がこのわたしのために備えられていたということを思い起こしながら、歩いていきたいと思います。

今日、イエスの体と血に与るあなたがたは神に備えられた未来を生きる人たちです。イエスと一つになって、一人ひとりに備えられている未来を生きる人たちです。謙虚に耳を傾けて、イエスに従って歩いて行きましょう。人の子と同じ道を歩くようにと召されているあなたは幸いな人なのです。

祈ります。

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