「暴露される神の働き」

2023年3月19日(四旬節第4主日)
ヨハネによる福音書9章1節~41節

「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。」イエスがマルコによる福音書4章22節でおっしゃっていることですが、この言葉はわたしたちの世界において真理です。どれだけ上手く隠したと思っても、隠し通せるものではありません。誤魔化し、言い逃れなどが行われるとしても、結局はそのような姿は皆分かっているのです。それなのに、わたしたち人間は隠そうとする。暴露されることのないようにと、逃げる。原罪が隠れ、隠す生き方へとわたしたちを導いているからです。

今日の聖書の初めにおいて、イエスはこのようにおっしゃっています、「神の業がこの人に現れるためである。」。この言葉の原文はこうです。「神の働きたちが、この人のうちで明らかにされるため」。新共同訳で「現れる」と訳されている言葉の原意は「明らかにされる」ことですが、先のマルコ4章で使われている言葉と同じで「暴露される」ということです。隠していても明らかにされ、真実が暴露される。暴露されると言うと、悪いことが暴かれるという意味になりますので、今日の聖書では「暴露される」などと訳さない方が良いのかも知れません。しかし、神のお働きはわたしたち人間には見えないように隠されているものですので、それが見えるようになるとすれば、暴露されるのです。隠されていたものが見えるようになるということは、わたしたちの目にかかっていた覆いが取り除かれることです。これを「啓示」と言います。

「啓示」という事柄は、真実を暴露することです。良いことも悪いことも明らかにすることです。今日の生まれつき目の見えない人は、隠されていた神さまの働きすべてを暴露されて、信じるに至るのです。神を信じる者には神の働きが明らかになるのです。それが、この生まれつき目の見えない人に起こった神の働きたちの結果です。彼が、目が見えるようになったことが幸いなのではなく、彼に暴露された神の働きたちを見ることができるようになったことが幸いなのです。それは彼が信仰の目を開かれ、真実な世界を見ることができるようになったということです。この人は、最終的にイエスと見えて、信じるに至っています。そこに幸いがあるのです。

この人は、最後にイエスに見えるまで、いろんな人から尋問を受けます。しかし、彼は自分自身の魂が知ってしまっていることだけを語ります。彼の言葉は真実を語っています。彼自身が経験した癒しの出来事をありのままに語っています。彼の感想が差し挟まれているわけではありません。むしろ、事実を事実として彼は語る。彼を尋問している人たち、ファリサイ派の人たちさえも、彼が語る事実の前には何も言えないという状態に置かれてしまいます。生まれから目の見えない人に暴露された事実を否定することは誰にもできなかったのです。

この人が、自分に起こった神の出来事を隠すことなく語ることができたのはどうしてでしょうか。それは、彼が生まれつき目の見えない人だったからです。彼は、身体的な目で物事を見てはいなかったのです。目の見えない人の方が、目で見える姿に惑わされることなく、相手の真実を見極めることができるということでもあるでしょう。わたしたちは身体的な目が見る感覚、つまり視覚によって騙されることがあります。視覚というものは、光が当たった対象物から反射した光が目に入ってきて網膜に像を映すものです。この際に、光を反射しない色は見えません。光を反射しないものは見えないで、隠れていると言えます。視覚を失っているということは、物体が反射する光に惑わされないということです。物体の反射光ではなく、その存在自体が発している真実を受け取ることができるということです。だからこそ、イエスは最後の41節でこのように言うのです。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」と。「見えなかったのであれば」と訳されている言葉は、実は「盲人であったならば」が原文なのです。つまり、生まれつき目の見えない盲人であったこの人こそが真実を見ていたということです。もちろん、暴露された神の真実を受け入れなければ、真実に見ているとは言えません。この人は、イエスに出会って、イエスによって目を開いてもらった。このようなことを自分に行った人イエスのことを、聖書に従って、神から遣わされたお方であると彼は認めることができた。最後に、イエスに見えたときには、彼は自らに起こった変化を神の働きたちの結果だと見る目が開かれていました。だからこそ、彼は言うのです。「主よ、信じます」と。

今日の聖書を読むと、わたしたちは本当に見ているのだろうかと思ってしまいますね。惑わされているのではないだろうかと思いますね。そうなのです。わたしたちが真実を見るためには、「わたしは惑わされているのではないのか」、「わたしは真実を受け入れているのだろうか」という思いを起こされる必要があるのです。生まれつき盲人だった人は、常に思っていたことでしょう、「わたしは見えていない」と。この自覚こそが、大事なのです。「わたしは見えていない」と自分の目を疑うこと、「わたしは惑わされているのではないか」と自分の魂の目にかかっている覆いを疑ってみること、これが大事なことです。真実はいずれ暴かれる。どれだけ言い繕ったとしても暴かれる。人間世界において、隠し通せたとしても、最後の審判においては何も隠すことができません。すべてをご存知の神の前に、わたしたちは跪くことしかできないのです。この盲人がイエスの前にひれ伏したように、わたしたちの魂が神の前にひれ伏すこと、それがわたしたちが毎週守っている礼拝です。この礼拝の中で、罪を告白して、赦しの宣言を聞きますが、赦しの宣言を受け取るのは、真実に自分を見つめて罪を告白した魂だけです。他の人がどうなのかはどうでも良いことです。まずは、自分自身が神の前に真実に生きているかどうかが問題なのです。

自分を隠す生き方が身についてしまったのはわたしたち人間の原罪の結果です。そこから解放するために、神はイエス・キリストをこの地上に派遣してくださった。イエスに出会うことで、わたしたちは原罪の縛りから解放され、神の前に生きるものとされます。そこに至るまでには、さまざまな道があります。それぞれに歩むべき道があります。苦難の道、辛い道、悲しみの道、さまざまでしょう。しかし、その道はあなたに与えられた道。あなたが歩むようにと神が備えてくださった道です。その道が神によって与えられた道であると信じて歩む人は、必ずイエスに出会います。いや、苦難の中で苦しみ歩むわたしたちの前を、イエスは先に歩いてくださっています。あの十字架の上で、先に歩いてくださっています。イエスの十字架は、わたしたち罪人が歩むべき道を先に歩み通した終着点なのです。

この四旬節は、イエスの十字架を仰ぎながら歩む期節です。イエスが十字架の道を神の備えた道として歩み続けたことを一緒に辿る期節です。四旬節の歩みの向こうには、出口があります。ご復活という出口があります。この出口も神が備えてくださった出口です。使徒パウロがコリントの信徒への手紙一10章13節で言っています。「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」。この「逃れる道」というのは原文では「出口」です。暗い闇に思える苦難の道の向こうには必ず「出口」があると語っているのです。イエスのご受難にも出口があった。それがご復活という出口。この出口があると信じて、イエスは十字架を負われたのです、受難予告の通りに。

この出口に至ったお方の体と血に与る聖餐を通して、わたしたちもまた、イエスと共に出口に至る力、忍耐する力を与えられます。わたしの口と喉でイエスご自身の体と血を受け取り、イエスと共に歩んで行きましょう。主は、あなたのうちで神の働きを暴露して、明らかな真実の中を歩くことができるようにわたしたちを導いてくださいます。あなたのうちで生きておられるキリストに従って、自由への道を歩み続けて行きましょう。

祈ります。

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