「呼び出されるいのち」

2023年3月26日(四旬節第5主日)
ヨハネによる福音書11章1節-44節

わたしたち人間はいつも元気にしていられるというわけではありません。強くなったり弱くなったりするものです。元気に生きているときには何とも思わないでできることが、病気になったり怪我をしたりしたときには、できなくなります。若いときにはすんなりできていたことが、歳を取るとできなくなります。すぐにできていたことが、時間をかけなければならなくなる。わたしたち人間は弱い存在です。弱さを生きなければならないということもあるのです。今日、イエスがおっしゃる「病気」という言葉はギリシア語で「弱さ」です。「この病気は死で終わるものではない。」と訳されていますが、原文通りであれば「この弱さは死に向かって存在してはいない」となります。病気はいのちが弱くなっている状態です。いのちが弱っているので、死に向かうように思えるものです。病気になると、気が弱くなります。「もうダメなのではないか」と思ってしまうこともあります。おそらく、ラザロの病状を知らせに来た人たちもそう思っていたのでしょう。周りの人たちも気弱になっていた。そのような彼らに対して、「この弱さというものは、死に向かっているように思えて、実は神の栄光に向かっているのだ」とイエスはおっしゃったのです。では、神の栄光とはいったい何でしょうか。

神の栄光と聞くと、素晴らしいことが起こることと思いますよね。ところがヨハネ福音書においては、神の栄光とは十字架のことなのです。ということは、ラザロのいのちが弱って、死に向かっているように思えるけれども、ラザロのいのちの弱さはイエスの十字架に向かっているものだということです。これでは意味が分かりません。ラザロが弱っていることが、最終的にイエスの十字架につながるということなのですが、どうしてそうなるのでしょうか。ラザロの病気とイエスの十字架にどのような関係があるのでしょうか。さっぱり分からないと思えます。しかし、ラザロの復活が起こったことによって、イエスを殺害する計画が進んでいくのです。このラザロの復活という出来事が、イエスの十字架を引き起こしたと、ヨハネは語っています。今日の日課では44節までしか読みませんでしたが、45節からはイエスの殺害計画が決められた次第が語られています。ラザロの復活の出来事によって、多くの者たちがイエスを信じるようになったために、ファリサイ派や他のユダヤ人たちは快く思わなかったのです。また、弱さを取り除くことが良いことであると信じていたファリサイ派にとっては弱さを良きものとしたイエスが我慢ならない存在になったということです。

わたしたちは弱さを良いことだとは思いません。弱さは克服しなければならないと考えます。強くならなければと考えます。そう考えることで、弱い人たちはダメな存在だと断定してしまうことになります。本当に弱さは悪いことなのでしょうか。聖書は弱さを肯定しています。イエスの十字架は弱さを肯定しています。コリントの信徒への手紙第二13章4節で、パウロはこのように言っています。「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです」。キリストの十字架はキリストの弱さだと言うのです。そんなこと言って良いのかと思える言葉です。キリストは力強い神ではないのかと思いますよね。ところが「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられました」とパウロは言うのです。そして、続けてこう言っています。「わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。」と。さらに12章9節においてはこのようなキリストの言葉を聞いたと述べています。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」。パウロも病気でした。弱くなりました。そのようなパウロも最初は強くなることを求めたでしょう。しかし、キリストに出会って、生き方が逆転したのです。「弱さを誇る」という生き方に変えられたのです。12章9節の後半ではこう語っています。「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」と。弱さを誇るという不思議なことをパウロは言うのです。このパウロの言葉は、今日の日課のイエスの言葉と重なります。「この弱さというものは、死に向かっているように思えて、実は神の栄光に向かっているのだ」とおっしゃるイエスの言葉は、パウロの誇る弱さを語っています。イエスの言葉が真実であると信じる者は、弱さを誇るでしょう。パウロのように誇るでしょう。そして、強くなることに取り憑かれたこの世に対して「そうではない」とおっしゃる神の力を現す器になるのです。神は、わたしたちの弱さを通して、ご自身の力を発揮なさる。それが今日のラザロにも起こったのです。

イエスは最後に言います。「ラザロ、出て来なさい」とイエスはラザロを呼んだのです。周りの人たちは死んだ人間に呼びかけて出て来るはずがないのにと思ったことでしょう。ところが、ラザロは出てきた。呼ばれたので、出て来た。死んでいるのですから、イエスが呼んでも聞こえるはずはないでしょう。しかし、ラザロは聞いた。ラザロの身体機能は停止していますから、耳が聞こえるはずはない。手足も動くはずはない。ところがラザロは聞いて、手足を動かして出て来た。死はすべての身体機能が停止することですから、究極の弱さです。究極の弱さが神の力が働く場となった。ラザロは弱さによって神の呼ぶ力に起こされたと言えます。彼は自分で起きたのではない。自分で出て来たのではない。イエスの呼ぶ声が彼を起こし、彼に出て来る意志を与えた。イエスの命じることに従う信仰を与えた。死んだ人間に信仰があるのかと思う人もいるでしょう。しかし、信仰は人間の信じる力ではないのです。神が与えるのが信仰です。ですから、信じる人は神の力によって信じているのです。神のご意志によって罪の世界から呼び出されるのです。ラザロが呼び出されたように、わたしたちキリスト者は神によって呼び出された。この世から呼び出された。強い者たちが支配する世界から呼び出された。弱いわたしたちが呼び出された。わたしたちは呼び出されてここに集められているのです、キリストの教会として。

弱く小さな群れであろうと、わたしたちはラザロのように呼び出されたいのちを生きている。キリストの十字架という弱さが、わたしたちのうちに生きている。この弱さは死に向かっているわけではない。神の栄光に向かっている。神の栄光である十字架によって生かされている。それが、わたしたちキリスト者です。弱く小さい群れであろうとも、わたしたちはキリストに呼び出されたいのちを生きる群れ。この弱さが集まっている中に、キリストの恵みが十分に与えられている。弱さがたくさん集まっているのだから、キリストの恵みもたくさん集まっている。自分の力ではどうにもならないと思える一人ひとりだからこそ、キリストに信頼して生きている。神がご意志に従って成したまうように成ると信じて生きている。いや、神が生かしてくださるように生きている。自分の力で生きているわけではない。ラザロのように、弱りきって、死んでしまった存在さえも、呼ばれれば、出て来ることができる。彼を縛っていた絶望という布に包まれたまま、出て来ることができる。絶望が取り除かれれば、弱いままに生きることができる。キリストが呼んだのだから弱さを生きることができる。それがわたしたちキリスト者なのです。

わたしたちは、どこまでも弱い存在です。しかし、神の力によって生きている存在です。神が生かし給うように生きている存在です。たとえ死に至ったとしてもなお、復活を生きる希望を与えられています。死を恐れる必要はないのです。イエスが十字架の死を越えて、復活のいのち、永遠のいのちに生きておられるように、わたしたちもまた生きるのです。呼び出されたいのちとして生きるのです。自分の力で生きるのではない。神の力によって生きる。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」と語り給うイエスに従って行きましょう。

祈ります。

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