「神が満たす出来事」

2023年4月2日(枝の主日)
マタイによる福音書21章1節-11節

わたしたち人間は言葉の動物だと言われます。言葉を持っているということは、自分の内なる思いを別の人間に伝えることができるということです。この言葉によって、わたしたちは自分たちの思いを伝え合って、知識も伝え合って、一緒に活動し、一緒に新しいものを作り出し、文化的に発展することができました。言葉というものがわたしたち人間を一緒に生きる者にしてきたわけですが、また言葉が理解できないと他者を理解することができない。言葉が壁になってしまうということもあるのです。バベルの塔の出来事はそうですね。また、言葉によって他者を傷つけるということも起こってきました。さらに、言葉によって嘘を覆い隠すということも行われてきました。そう考えてみると、言葉そのものは良いものでありながら、悪く用いられることもあるということですね。神が与えてくださった良いものを悪く用いてしまう。これが人間の原罪の姿だと言えます。

では、預言者はどうなのでしょうか。預言者とは神の言葉を預かって、民衆に語る人のことですね。その人が語る言葉が神の言葉であるならば、良いことにしか用いられないのでしょうか。今日の日課では、最後に群衆が言います。「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と。イエスは預言者だと思われています。どうしてなのか。イエスが言葉の人だったからでしょうか。イエスの言葉に力があったからでしょうか。もしかしたら、イエスが語った言葉に反発したファリサイ派や律法学者たちがいたから、群衆はそう思ったのかもしれません。なぜなら、預言者は特にその当時の指導層を批判する言葉を、神の言葉として語ったからです。イエスも同じように、虐げられている民衆の味方のように思われていました。それで、群衆はイエスを預言者だと思った。確かに、イエスは言葉の人です。イエスの言葉には力があった。弱い人たちを励まし、彼らに生きる力を与えてきた。「貧しい人たちは幸いだ」とおっしゃった。「悲しむ人たちは幸いだ」と語ってくださった。そのような言葉を聞いていた群衆はイエスを預言者だと思っても不思議ではありません。

しかし、預言者は指導層だけではなく、仕舞いには民衆にも嫌われることになります。もちろん、指導層によって利益を得ている民衆がイエスを嫌うのですが、それは自分たちの既得権が失われると思わされたからです。心配になった民衆はイエスを排除することに加担するのです。真実の神の言葉を語ったとしても、民衆の利益にならなければ排除される。先の幸いの言葉の個所でイエスが最後にはこう言っています。「あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」と。つまり、幸いであると宣言したイエスが、幸いな人は迫害されると言うのです。それでは幸いではないと思いますよね。そうです。この世で迫害され、皆の中に入ることができなければ幸いではないと思います。ところが、そのように語ったイエスは預言者と思われ、そして最後には十字架で処刑されるのです。イエスはご自分が語られた通りに、迫害された。だから、イエスを預言者と思った人たちは正しかったのです。多くの預言者たちは迫害の果てに、追い出され、殺害される者もいたのです。イエスも同じです。ということは、預言者は人間である相手の気持ちに寄り添う言葉を語ったのではないのです。幸いの言葉を語ったイエスも、弱い人に寄り添う言葉を語ったのではないのです。ただ、神のご意志は必ず実現すると語ったのです。弱い人だから神は顧みてくださるということではありません。弱い人であろうとも、神の意志の実現を求める人と、自分の意志の実現を求める人に分かれます。イエスが幸いを宣言した貧しい人や悲しむ人たちは、神の意志を求めている人たちでした。だからこそ、幸いとイエスは言うのです。同じ貧しい人たちの間でも、人の顔色を伺う人と、神の言葉に従おうとする人とに分かれるのです。結局、人間はどのような境遇にあろうとも、神に従うか人間に従うかに分かれてしまうということです。それは、言葉の生き物として造られた人間が造ったお方の言葉を大切にするか否かということによって違いが現れるのだと言えます。

預言者は、神の言葉を預かって、民衆に語ったのですが、その神の言葉を実現するのは預言者ではありません。神の言葉そのものが実現するのです。神が語られたのですから、語られたお方が実現するのは当たり前です。それを聖書では「神の言葉が満たされる」と表現します。イザヤ書の言葉とゼカリヤ書の言葉が引用される際に、こう言われています。「預言者を通して言われていたことが実現するためであった」と。この「実現」と訳されている言葉が「満たされる」という言葉です。この「満たす」という言葉が語っているのは、容器の中に水を満たすような感じです。その容器に水が満杯になるまでは何も起こっていないように思えます。ところが、容器の縁を越えて水が溢れ始めると「水がいっぱいになった」と分かります。水がいっぱいになること、それが「満たす」ということですね。神の言葉が実現するということも同じだと聖書を書いた人たち、預言者たちは考えたのです。ということは、イエスの十字架も水がいっぱいになって現れてきた人間の罪の現実だと言えます。しかし、それさえも神が満たした出来事。神さまのご意志が実現する出来事だと、マタイは記しているのです。

わたしたちは、良いことだけが神のご意志の実現だと思っています。ところが、イエスにとって悪いことに思える十字架が神のご意志の実現だと聖書は語っています。だとすれば、わたしたちにとって悪いことだと思えることにも神のご意志があるということです。もちろん、人間の罪が十字架を引き起こしたのですが、その罪を神がご意志を実現するために用いられた。神は人間の罪さえもご自身の意志の実現に変えてくださるということです。そう考えれば、わたしたちの世界に起こっている出来事も、わたしにとって悪だと思えてもなお、神のご意志に従って用いられていくと言えます。

わたしたちは、起こった出来事を自分の都合の良いように変えようとします。しかし、結果的には神のご意志が実現するために、わたしたちが行った改変も用いられてしまう。いかに上手く変えたと思っても、人間の都合であるならば、人間が変えた出来事は人間の思うようには進まないということです。そして、神のご意志が実現する。神の意志が満たされる。そのようなお方がこの世界を支配しておられることを信じる者には、いかなる悪も対抗できないでしょう。いかなる思惑も人間の思うようには実現しないでしょう。ただ、神の意志の実現のために用いられるのです。それは、神が言葉を持って世界を造り、言葉を持って世界を導いておられるからです。

神の言葉は、神の意志の現れです。神が内なる意志を言葉として語った。それがわたしたちに起こってくる出来事です。その出来事の中に、神の意志を聞いたのが預言者です。預言者は、先のことを予め見るということではないのです。神の言葉を純粋に受け取るならば、その言葉に込められた神の意志を聞くことができるということです。預言者たちはそのようにこの世の出来事の中に神の意志を聞いたのです。イエスも同じ。しかし、救い主は、ただ聞いて、伝えるのではなく、聞いた言葉が実現するためにご自身を献げるということです。なぜなら、神が派遣した救い主ですから、神の言葉は救い主を通して実現するということです。たとえそれが、人間の思惑によって起こされた出来事であろうとも、その出来事は神の世界に起こっている出来事ですから、神が支配し、神がご自身の意志の実現のために用いられる出来事となってしまうのです。

わたしたちの世界に起こってくる出来事に一喜一憂する必要はない。いかなることが起ころうとも、神のご意志に従っている人にとっては、悪であろうとも危害を加えることはできないということです。わたしたちが共にいただく聖餐は、死に至るまで神の意志に従い通したお方の体と血。そのお方があなたがたのうちに生きてくださる天の賜物。あなたがたが神の出来事に従って生きていくことができますように。

祈ります。

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