「わたしとあなたがたの神」

2023年4月9日(復活主日)
ヨハネによる福音書20章1節-18節

神さまとの関係は、わたしと神さまとの個人的な関係だとわたしたちは思っています。ところが、復活されたイエスはマグダラのマリアの「わたしの先生」というイエスへの思いを拒否します。この後で、「わたしの主、わたしの神」と言ったトマスをイエスは拒否していません。マリアが触ろうとしたときには「触ってはならない」とおっしゃったのに、トマスには「指を入れてみよ」と言うのです。もちろん、「見ないで信じる者は幸いである」とおっしゃっていますが、トマスの信仰を否定しているわけではありません。それなのにどうして、マグダラのマリアは触ることを拒否されたのでしょうか。「わたしの先生」と「わたしの主、わたしの神」との違いは何でしょうか。そこにあるのは、親しみと畏れ敬うことの違いでしょう。

信仰というものは親しみとは違います。神を畏れ敬うということは、神に親しみを感じることではありません。イエスさまは優しいから親しみを感じるなどと言って、信じる人はいないのです。もし、そのように言うなら、その人は信じているのではないでしょう。イエスの優しさに親しみを感じているというに過ぎません。イエスの優しい部分だけを見ようとする人です。イエスの厳しさに込められた愛と苦難を引き受けられる神の愛の峻厳さを知ることはないでしょう。

信じる人は、神に対して畏れを感じる人です。そして、信頼できるお方だと信じるのです。畏れるということは、恐怖ではありません。近寄り難いほどに聖なるお方であることを認めることです。ですから、イエス・キリストを信じる人は、イエスの優しさに親しみを感じるなどと言う人はいないのです。近寄り難いお方が、わたしを愛して、ご自身を献げてくださった十字架の出来事に親しみを感じる人はいないでしょう。畏れ多いことだとひれ伏すのです。それがわたしたちの信仰です。

この信仰に気づかせるために、イエスはマリアに言います。「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」ここでイエスは「あなたがたの父」、「あなたがたの神」と言っています。つまり、ご自身と父なる神との関係は個人的な関係であり、あなたと神との関係は「あなたがたの神」という関係なのだと言うのです。わたしたちはトマスが言う「わたしの主、わたしの神」という告白とは違うと思うでしょう。しかし、最終的には「わたしたちの神」という形になるとイエスはおっしゃっているのです。その父なる神もとへ昇ったときには、イエスも「わたしたちの主」となると言っているわけです。なぜなら、イエスと父とは一つだからです。

一つの神を拝み頼むと歌う讃美歌があります。それは一つの民として神を信じ、従うという意味です。一つの神の下には、多くの民が一つの民として従っているのです。使徒パウロが言うように、そこには人種の違いも男女差も関係ありません。一つの民は一つの信仰を与えられた民として、一つの神を拝み頼むのです。神は一つ、主は一つ、御霊は一つ。これが、わたしたちキリスト者が信じている三位一体の神です。マグダラのマリアが「ラボニ」(わたしの先生)と言った言葉を拒否したのは、このような信仰へとマリアを導こうとするイエスの心があったのです。それゆえに、マリアはイエスに触れることなく、「あなたがた」である弟子たちの許へ派遣されたのです。

わたしたちが信じている主のご復活もまた、信じる者たちである「あなたがた」のために神によって起こされた出来事です。この「あなたがた」が一つとなるために「わたし」がいるのだとイエスはおっしゃっているのです。だからこそ、マリアがイエスを「わたしの先生」にすることなく、「あなたがた」である弟子たちと共に「わたし」を拝むようにと派遣されたのです。しかも、ここで女性であるマリアに最初に現れたということが重要です。男性優位の世界にあって、イエスは女性に最初に現れてくださった。そこには、「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」(マタイ20:16、ルカ13:30)と、イエスがとおっしゃった言葉が響いています。女性は後回しにされていた世界にあって、イエスは女性を先に顧みてくださったと言えます。そして、弟子たちが陥るかも知れない間違った信仰を正すために、マリアを派遣したのでしょう。そこには、一人になって泣き悲しんでいたマリアへのイエスの愛があるのです。

ペトロやもう一人の弟子が去った後になって、イエスはマリアが一人墓に残っていたときに、現れてくださった。ひとりぼっちのところに、現れてくださったイエスを見て、マリアは思わず「ラボニ」(わたしの先生)と言って抱きしめようとしたのでしょう。そのマリアの思いを受け止めつつも、イエスは正しい信仰の姿へと彼女を導いてくださった。これこそがイエスの優しさであり、マリアへの愛なのです。

主のご復活は、確かに信じるあなたのためのご復活です。しかしまた、他の信じる人たちのためのご復活でもある。それゆえに、マリアは天使のような役割を与えられたのです。マリアは、最初の宣教者だと言えます。暗く沈んでいた弟子たちのところへと派遣されたマリア。最初に現れてくださったイエスが彼女を派遣した。もちろん、マリアも暗く沈んでいた。その彼女を励まし、宣教する者にしてくださったのは、復活されたイエスでした。それゆえに、わたしたちはマリアのように派遣されていると言えます。暗く沈んでいる人たちの中へと入っていくように派遣されている。主のご復活は個人的喜びではないのです。他の人にご復活の喜びを伝え、分かち合うようにと派遣されることなのです。あなたも「あなたがた」に入れられる人だと伝えることが、ご復活の喜びに触れた人の働きです。最初の宣教者であるマグダラのマリアがそのことを証ししてくれています。

わたしたちが主のご復活を喜び、他の人たちに伝えることによって、「あなたがた」が生まれるのです。「わたし」だけの主にしてしまってはならないのです。「あなた」も「あなたがた」と言われる主の民へと招かれている一人だと伝えること。マリアのように伝える者は、伝えることによって自らも喜ぶのです。「わたしは主を見ました」と証しすることによって、自らに与えられた信仰を告白するのです。

礼拝の中で行われる信仰告白は「わたしは信じます」という「わたし」になっています。信仰告白は「わたし」に与えられた信仰の告白です。その「わたし」が集められて「わたしたち」となっているのです。信じている「わたしたち」として、共に一つの神、一つの主、一つの御霊を告白するのです。そして、「一つの教会」を告白する。「聖なるキリスト教会」は「わたし」の集まりである「わたしたち」なのです。神によって呼び集められた「わたし」が「わたしたち」とされて「一つの聖なるキリスト教会」とされていると告白するのです。

キリストの教会は一つ。「わたしたち」も一つ。ここにいる人だけではなく、先に天に召された人たちも「わたしたち」なのです。なごや希望教会だけではなく、世界中の一つ一つの教会が集まって「一つの聖なるキリスト教会」となっているのです。イエスがおっしゃる「わたしとあなたがたの神」の下に一つとなっている教会。それが、わたしたちが信じているキリストの教会なのです。

主のご復活を喜び祝う一つの民は、世界中にいます。世界中に主のご復活の喜びが満ち溢れている。わたしたちなごや希望教会もその中にあるキリストの教会です。ご復活を喜ぶ一つの民とするために、キリストはご自身の体と血を与えてくださいます。一つの体としてキリストに結ばれるようにと与えてくださいます。主の体の一つ肢としての「わたしたち」を生きて行きましょう。あなたのうちに、生きておられる主があなたがたと共にいてくださいます。十字架と復活の主イエス・キリストの恵みがあなたがたのうちに力強く働きますように。

主のご復活おめでとうございます。祈ります

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