「主の祈り」

2023年4月16日(復活節第2主日)
ヨハネによる福音書20章19節-31節

わたしたち人間は他の人と同じでなければ不安になります。自分だけ違うと大丈夫なのだろうかと思います。答えは同じでなければならないと思うものですが、それは試験の繰り返しの中で、次第にそのような考えに陥っていくのかも知れません。陥った結果、わたしたちは他の人にも自分の考えを押し付けることになります。同じでなければいけないと、誰が決めたのでしょうか。自分を含めた世間というものが決めたのです。神はそんなことをおっしゃっていないのに、みんなが同じでなければならないと考えて、同じではない人を排除することも行なわれてしまいます。コロナ禍でもコロナ以後でも同じようなことが起こっています。それが人間の罪の状態だとは知らずに当たり前のようになっていきます。

今日のトマスもそうですが、他の弟子たちも一緒です。同じ経験をした者たち同士で意気投合している中にいて、トマスが反発するのも分かります。トマスも同じ罪の病にかかっていると言えますが、それは他の弟子たちがトマスを思いやることができなかったからでもあるでしょう。こうして、同じでなければならないという病は蔓延していきます。

そんなトマスのために、イエスは再び現れてくださいました。なんと優しいお方でしょうか。そして、わざわざトマスが言った言葉の通りのことをしなさいと、ご自分の体を彼に差し出すのです。イエスの思いに触れたトマスはイエスの前にひれ伏して、「わたしの主、わたしの神」と告白します。このトマスの告白は、イエスが祈ったことの結果だと言えます。イエスは、祈りに基づいてトマスに関わってくださった。信じる者になって欲しいというイエスの祈り、主の祈りがトマスを信じる者にしたのです。

わたしたちキリスト者は、主の祈りによって信じる者にされているということを忘れてはなりません。主の祈りは、十字架の祈りです。イエスが十字架を負われたのはわたしたちの救いのためと言われますが、それは一人ひとりが信じる者になるために負ってくださった苦しみなのです。主の祈りは十字架の言葉です。十字架に込められた主の祈りがわたしたち信じる者のうちに働いているのです。トマスのためにわざわざ再び現れてくださったように、主はわたしたち一人ひとりに現れてくださったのです。あなたが信じる者になるようにと現れてくださったのです。主の祈りに支えられてわたしたちは信じる者として生かされているのです。

そうであれば、その祈りはすべての人を包んでいるのではないかと思いますよね。それなのに、信じる人と信じない人に分かれるのはどうしてなのでしょうか。主が祈ってくださった思いを受け取る人が少ないのはどうしてなのでしょうか。受け取らなければ、信じる者にならないのでしょうか。そうです。受け取るということは、わたしのために祈ってくださっていると受け取ることですから、受け取らなければわたしのうちには主の祈りは働いてくださらないのです。いえ、わたしが働かないようにしてしまっているのです。

神は、人間すべてのことを考えてくださっています。すべての人が神の意志に従って造られたのですから、神の意志に従って生きて欲しいと思われるのは当たり前です。その心から離れてしまい、自分の思いに従って、自分の都合で生きるようになったのが人間の原罪です。この罪の在り方から解放するために、神はイエス・キリストをお遣わしくださいました。十字架を負ってまで、わたしたち人間が救われることを祈ってくださった。そのお方の心が、わたしたちがいつも唱えるように教えられている「主の祈り」です。

この「主の祈り」は、わたしたちが神のご意志に従う者になることを祈るのです。神の御名が崇められますようにとの祈りは、このわたしが神の御名を崇める者となりますようにとわたしが祈るのです。ルターが小教理問答の「主の祈り」の解説で言っている通りです。御国が来ますようにと祈るのは、このわたしのところに御国が来ますようにということですが、わたしが神のご支配に服従しますようにという意味です。神の御心もわたしの上になりますようにと祈りますが、わたしが神の御心である神のご意志に従う者として生きることができますようにという祈りなのです。日毎の糧を毎日与えてくださっていることに目が開かれますようにとも祈ります。悪がわたしを支配せず、誘惑に陥らないようにしてくださいと祈ります。もちろん、わたしたち人間が頑張って、誘惑に陥らないようにするのではありません。わたしたちは、悪に対抗して、力に誘惑され、悪を行なってしまうのです。だからこそ、神がこの愚かな罪人を支配してくださって、誘惑に陥らないようにしてくださいと祈るのです。わたしたち人間は、悪に対抗して、悪に流されていくのです。そうならないとすれば、神の力に信頼して、神にすべてを委ねて生きている人でしょう。

トマスが告白した「わたしの主、わたしの神」という言葉が表しているのは、「主イエスよ、あなたがわたしを主としてご支配ください。わたしの神としてわたしがひれ伏すようにしてください。」という信仰を、短く表した言葉なのです。ここにも、わたしたちが祈る「主の祈り」の中心的な主題が響いています。主イエス・キリストは、わたしたちが神のご支配の中で、信仰による従順を生きて欲しいと願い、祈ってくださっているのです。トマスだけではなく、他の弟子たちにも、トマスとの関わりを通して教えてくださったのでしょう。だから、トマスが不満を口にしたことも良かったのです。他の弟子たちにとって良かった。それ以上に、トマスにとって良かった。彼が真実にイエス・キリストを主と告白するところへと導かれたからです。

主の祈りは、わたしたちを信じる者にするための祈りです。主は、祈るだけではなく、祈りに基づいて働いてくださる。今日、トマスに直接働いてくださったように、わたしたちにも働いてくださいます。だからこそ、主の御名によって祈るわたしたちの祈りも、イエスの祈りに基づいて実現します。主の祈りの中で、イエス・キリストご自身が働いてくださるからです。わたしたちの祈りが聞き届けられるのは、主の祈りがあるからです。わたしたち人間の祈りの力ではなく、主イエス・キリストの祈りの力があって、わたしたちの祈りも聞き届けられるのです。トマスのつぶやきのような祈りをも、聞き届けてくださったイエスなのです。罪深いと思えるつぶやきのような祈りに応えてくださったイエスなのです。このお方が、わたしたちの主、わたしたちの神です。

わたしたちは、いつでも従順ではありません。ときに従順であるかも知れませんが、すぐに自分の思いに支配されてしまいます。トマスと同じように不満を抱えてしまいます。他の弟子たちと同じように他者を思いやることができなくなってしまいます。思いやっていると思い上がることもあります。どうしても、自分中心で考えてしまいます。そのようなわたしたちの思いを主はすべてご存知です。わたしたちの哀れさをご存知です。情けないと思うわたしであることをご存知です。そのような愚かなわたしのために、主は繰り返し語りかけてくださいます。

毎週、主はみことばをくださいます。いつでも、わたしの救いを願って、祈ってくださっています。このお方が、わたしの主、わたしの神なのです。この告白に導かれたわたしは、決して見捨てられることはないのです。いつも、主の心はあなたの上に注がれているのです。いつも、主の眼差しはあなたを捉えてくださっている。わたしが迷うときも、主は見ていてくださる。わたしが怒るときも、主は諭してくださる。わたしが喜ぶとき、主は一緒に喜んでくださる。わたしが悲しむとき、慰めを与えてくださる。このようなお方が、トマスに現れてくださったイエスなのです。トマスと同じように迷うあなたのために、イエスはご自身を与えてくださいます。

今日、共にいただく聖餐は、このイエスの御心、主の祈りなのです。信じる者になりなさいとの祈りが、主の体と血として与えられます。あなたのうちに、主が生きてくださる天の賜物をいただいて、神のご意志に従う道を歩み続けましょう。わたしの主、わたしの神と告白して、恵の賜物をいただきましょう。あなたは主のものなのです。祈ります。

Comments are closed.