「点火するイエス」

2023年4月23日(復活後第3主日)
ルカによる福音書24章13節-35節

燃えるという出来事は、火が点されて燃えるものですね。火がなければ燃えることはありません。つまり、点火するものがあって、火がついて、燃えるということです。もちろん、燃えること自体は燃えるものでなければ燃えません。普通に火がつくためには、燃える要素が必要なのですが、燃える要素、つまり燃える物質と燃やすための空気が必要です。そこに火が点けられると燃えるわけです。エマオに行く途上の二人の弟子たちが「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と32節で振り返った出来事には、この燃える物質と点火するものが記されています。燃える物質は「わたしたちの心」です。点火するものは「イエスによる聖書の説明」でしょう。そうすると、燃やすための空気は何でしょうか。聖霊の風です。

「二人は暗い顔をして立ち止まった」。暗く沈んだ顔は、彼らの心情。その心情が燃える物質であり、火を受け取って、彼らの心に火が点った。聖霊の風が吹いて、火が点った。そう考えてみると、暗く沈んだ顔を見て、イエスは彼らの心が燃える物質だと理解し、そこに「聖書の説明」という火を与えてくださったのです。それで彼らは「わたしたちの心は燃えていた」という状態になった。

暗い顔と訳されている言葉は、「陰鬱な顔つき」のことです。彼らは自分たちの期待通りに行かなかったことに対して、「陰鬱な心情」になった。その心情が顔に現れた。彼らの心が現れた顔をイエスはご覧になって、彼らに火を点した。それが「聖書の説明」だとルカは伝えています。「聖書の説明」が火を点すことだというわけです。どうしてなのでしょうか。

わたしたちも同じような経験がありますよね。暗い感情に押し流されそうになるとき、開いた聖書の言葉によって、まったく違う視点を与えられて、心が晴れやかになるということがあります。聖書はそのように火を点す働きをしてくれるのです。新共同訳が訳している「燃える」という言葉は「火を点す」が原意ですが、これは「明るくする」ことも意味しています。つまり、彼らは火を点されて、心が明るくなったということです。今まで陰鬱な感情に支配されていた二人が晴れやかな心になったのです。彼らの心を覆っていた暗い闇が、明るい昼のように、晴れ渡った空のようになったのです。陰鬱になって、下を向いていた彼らが、上を向いて歩き始めることができるようになった。それは「聖書の説明」が点した火のお陰なのです。

27節で「聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明された」と記されていますが、この「説明された」という言葉は、ディエルメネウオーという言葉で、「解釈する」、「通訳する」という意味です。「通訳する」のですから、もともと分からない言葉、違う言語なのです。イエスは、彼らに通訳してくださった。それは神の言葉の翻訳なのです。神の言葉は、神の言語、神語ですから、人間の言語、人語に翻訳しないと分からないということでしょうね。イエスは、通訳者、翻訳者だということになります。そして、通訳することが「火を点す」ことだということになりますね。その通訳は、ご自分に起こった出来事が神の言葉の通りの出来事であると翻訳してくださることです。しかも、その言葉を聞く人が分かる言葉で翻訳してくれるのです。そこには、聖霊が働いていると言えます。マルティン・ルターが言うように、聖書の言葉と共に聖霊が働くのです。二人の弟子たちに、イエスがご自分のことについて聖書を説明したという言葉が示しているのは、聖霊を通して翻訳したこと、聖霊訳聖書が二人の弟子たちに与えられたとも言えますね。

聖霊訳聖書は、わたしたちの心を開いてくれます。明るくしてくれます。読み方が違ってくるからです。聖霊が働いていない間は、わたしたちが聖書を読んでも、何のことか分からないだけではなく、聖書と自分との間には壁があるように思えます。自分とは関係ないことが記されていると思ってしまいます。ところが、聖霊が働くと、聖書の言葉が神の言葉として聞こえてきます。神の言葉として聞こえるということは、神さまがこのわたしのために語ってくださっていると聞こえてくることです。そのように聞こえてきたとき、わたしたちは神さまの心を受け取っています。内容が良く分からないとしても、何だか知らないけれど、わたしを思って語りかけてくださっていると、語りかける神さまの心を受け取ることになる。

言語が違う人同士であっても、一生懸命に関わろうとしてくれる人が何か分からない言葉を語っているとしても、ありがたい心になりますよね。同じように、意味が分からないとしても、語りかけ、関わってくださる心はわかるのです。それが神の言葉がわたしのために語られていると受け取る心なのです。その心は暗い心でしょう。暗さは光を求めています。それが陰鬱な顔です。その顔が求めている光は、イエスの翻訳してあげようとする心、関わってあげたいという心なのです。イエスの翻訳を聞いて、彼らの心に火が点った。なぜなら、イエスが翻訳までしてわたしに関わろうとする心が見えたからです。そのようなイエスの心が彼らの心に火を点した。そして、彼らの暗い世界が明るく輝く世界に変えられた。そうであれば、暗い世界があってこそ、イエスは翻訳してくださるということです。暗い感情に支配されている人に、神の言葉は聞こえてくるということです。どうにもならないと落胆している人の心に火が点るということです。

あなたの暗さの中に、イエスは一緒に歩いてくださるお方です。どこからともなく横に来てくださり、あなたの暗い感情に耳を傾けてくださる。そして、聖書を開いてくださる。二人が後になって、思い起こし、自分たちの心が燃えていたと言ったとき、こう言っています。「聖書を説明してくださったとき」と。この32節で使われている言葉は先ほどの「通訳」、「翻訳」という言葉ではありません。「聖書が、わたしたちに開かれたとき」が原文です。聖書が開かれたのです。それまで何のことか分からなかった聖書が開かれた。そして、彼らの心は神のご意志を受け取ることができたということです。

聖書が開かれるという経験をわたしたちもしていますよね。今まで、何気なく読んでいた聖書の言葉が、「なんと慰めに満ちた言葉だろうか」と思えるときがあります。何気なく読んでいたときには、まったく理解できなかった言葉だったのに、その言葉が「慰めに満ちた言葉」として聞こえてくる。それが「聖書が開かれる」ということです。わたしのために、ここに書かれていたと思うようなことが起こります。それは、わたしたちが暗く、陰鬱な感情に支配されているときでしょう。平穏で、何事もなく、上手く行っていると思えるときには、自分とは関係ないと思っていた聖書の言葉、神の言葉が、途端に鮮やかなイメージとして開かれていく。そして、慰めと力をいただくことができる。暗く陰鬱な感情の裏側で、わたしが探し求めている光が指してくる。そのとき、わたしたちには聖霊が働いているのです。聖書の言葉、神の言葉がわたしのために、ここにあったと受け取ることができるとき、わたしのうちに聖霊が働いているのです。

あなたの暗さ、あなたの陰鬱さ、あなたの絶望。その暗い世界に火を点けるためにイエスは現れてくださる。点火するイエスがあなたと並んで歩き始めてくださる。このお方が、わたしたちの主、わたしたちの神。このお方が働いてくださることを受け取るのは、わたしたちの暗い心。それが、火が点るべき燃える物質なのです。燃やす空気は聖霊であり、火はイエスの言葉、聖書の言葉、神の言葉なのです。あなたが暗いと感じるとき、あなたのそばにイエスは来てくださいます。あなたが陰鬱になるとき、イエスは共に歩いてくださいます。あなたの悲しみの中で、苦しみの中で、イエスはご自身の十字架を指し示してくださいます。十字架の向こうに輝く復活の光を見せてくださいます。あなたは落胆しても良い。イエスがそこに来てくださる。あなたの心に点火したいと、イエスはあなたを求めておられるのです。

祈ります。

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