「声が結ぶ関係」

2023年4月30日(復活後第4主日)
ヨハネによる福音書10章1節-10節

声というものは、その人の内面を外に表しています。内側にあるその人自身の存在、その人自身の在り方、その人自身の内心を外に表しているのが声です。もちろん、人に与えられている声はその人が選んだわけではありません。ご自身が作ったその人自身を表すために神さまが声を与えているのです。

わたしたちの声は、ときに素直に発せられることもあり、また作って発することもあります。素直に出てくる声はその人そのものでしょう。しかし、作った声はその人が作った声です。神さまが与えたその人自身を表してはいない。作り笑いと同じようなものです。素直に、自分自身を表している人の声は誠実な声です。何も隠すことなく表しているので、信頼できます。たとえその声が厳しい言葉を語ったとしても、その声に表れているその人の内心を受け取ることができる人には信頼できる声として聞こえてきます。わたしたちの声は素直な声なのか、あるいは作られた声なのか。これによって、泥棒と羊飼いの違いが分かってしまうのです。

イエスは、ご自身と泥棒の違いを語りますが、その話ではイエスはご自身が「門」だと言い始めます。羊たちがその声を知ってしまっている羊飼いに従っていくと述べた後で、ご自分を門だと言うのです。門であるイエスを通って入るならば、救われるのだと言うのです。ということは、声も門のような役割をしているということになります。なぜなら、イエスの声に従っていくことが、門を通って、救われることにつながっているからです。

救われた羊たちが、いのちを持っているために、イエスは来たのだと言います。しかも、豊かに溢れるほどに持っているために来たと言うのです。つまり、イエスが発する素直な声を聞いて、イエスが神によって派遣されたことを知る羊たちは、神の許に導かれ、豊かな溢れるほどのいのちを生きることになるというのです。ここへと導くのは声です。イエスの声も神が与えた声ですから、その声の内実を知る羊たちが従って行き、いのちを持つようになる。神が与えた声がイエスと羊たちをつなぐ絆になっている。これが、今日イエスが語っていることです。

マタイ、マルコ、ルカという共観福音書では、洗礼者ヨハネが荒野で叫ぶ声だと言われています。ヨハネ福音書では、イエスがその声を持って羊たちを導くと言われています。どちらも、神が与えた声。どちらも神が語る言葉を伝える声。声というものが、神がその人を形作ったときに与えられたとすれば、声の中に神の意志があり、神の計画があることになります。神は、声によって、イエスと羊たちをつなぐようにしてくださった。だからこそ、羊たちはイエスに従うのです。羊たちが知っている声だと言われている通り、羊たちには声を認識する力が与えられているのです。

わたしたちも、初めて聞いた声なのに、ずっと以前から知っていたと思うことがありますよね。懐かしい声だと思うこともあります。声が、その人の内心を表すとすれば、声を知っているということは、その人の内心を知っているということです。どこで知っていたのかは分からないけれど、羊たちのうちに、イエスの声を認識する力が与えられていた。だからこそ、イエスに従っていく人は、神によって与えられた「声が結ぶ関係」を生きていくのです。自然に、イエスに従っていくのです。それがイエスの羊なのです。

「声が結ぶ関係」というものは、わたしたち人間同士にもあります。先ほど申しましたように、懐かしい感じのする声を聞くことがあります。以前から知っていたと思うような声を聞くことがあります。もちろん、声だけではなく、その人の存在を以前から知っていたように思うこともありますね。つまり、声だけではなく、その人の存在自体を知っていたように思うことがあるのです。声を聞いたことがあると思うことも、その人の内なるものとどこかで結ばれていたということでもあるでしょう。もちろん、神が結んでくださっていたのです。そう考えてみれば、イエスに従う羊たちもまた、神が結んでくださっていた関係を声によって認識しているということです。わたしたちがイエスに従ったことも、同じです。ただ、わたしたちはイエスの肉声を聞いたことはありません。聖書の中で語る言葉を読んでいるだけです。しかし、聖書の中で語るイエスの言葉、それも声なのです。

声というと、声の高さや幅などを含んでいるのですが、また声の質というものもあります。それらの声に含まれる要素が、全体としてその人を表しているわけです。そして、声が声を持っている人の内側を表しているとすれば、声には単に声質ではなく、声に含まれているその人自身の在り方が含まれているのです。聖書の中で語っておられるイエスの言葉を読んで、わたしたちはイエスの声を聞いていないと思うでしょうか。いえ、聞いているのです。言葉の内実を聞いているのであれば、わたしたちはイエスの声を聞いているのです。わたしたちが「いのちを持っているために」来てくださったイエスが分かるとき、わたしたちはイエスの声を聞いています。わたしのために十字架を負ってくださったイエスを知るとき、十字架の言葉はイエスの声として聞こえてきます。このわたしのために、いのちをかけてくださったというイエスの内なる心の声を聞いているからです。反対に「その話が何のことか分からなかった」と言われているファリサイ派の人たちは、イエスの内なる声を聞いていないのです。いえ、声によってイエスと結ばれていないのです。だから、分からない。

そのような人たちは、どれだけイエスの言葉を聞いても、どれだけ聖書を読んでも、イエスの声は聞こえないでしょう。イエスの内実を聞くことはできないでしょう。それは仕方ないことなのです。イエスの羊ではないからです。もちろん、ファリサイ派の人たちのように、耳に聞こえていても、理解できないというように、その人とイエスの声との間に大きな壁があるのです。だから、自分とは関係ないことだと聞き流してしまうのです。関係ないのです、彼らには。声で結ばれていない彼らには、関係ないこととしか思えない。イエスの声と結ばれている関係は、神が引き寄せてくださる関係だと、ヨハネ福音書は語っています。その通りです。わたしたちも、神が引き寄せてくださって、「イエスの声を知っている」と認識した。だからこそ、イエスに従って来たのです。

あなたは、イエスという門を通るように導かれていた。あなたは、イエスの声に結ばれていた。それで、イエスに従って来た。それは、あなた自身から発したことではないのです。神がそのように作り、そのように導いてくださったことなのです。だから、わたしたちは神に導かれて、イエスと結ばれたと感じるのです。どうしてなのか分からないけれど、イエスに結ばれている。それが、「声が結ぶ関係」に入れられているイエスの羊なのです。

あなたが、イエスを選んだのではありません。神があなたをイエスの羊としてくださったのです。あなたが、イエスの声を知っていたのではありません。神があなたにイエスの声を知らせていたのです。あなたが、自分で救われたのではありません。神が、イエスの声と結び、救ってくださったのです。

わたしたちは、徹頭徹尾神によって結ばれた関係を生きている。この関係を生きるように導かれたことは、幸いだった。神が守ってくださる羊たちの囲い庭に入ることができる幸いを生きている。それが、わたし自身であることを忘れてはなりません。あくまで、神がわたしを救うために、イエスを派遣してくださったことを忘れてはなりません。声によって結ばれた関係をわたしたちが生きるために、イエスは聖餐を設定してくださいました。あなたのために語られている声を聞くあなたは、いのちを豊かに溢れるほど持っているものとされるのです。イエスは、あなたが入るべき門として立ってくださっています。あなたを救うために十字架という門を作ってくださったイエスの心をいただきましょう。聖餐を通して、イエスという門を入って、豊かないのちに与りましょう。

祈ります。

Comments are closed.