「未来を生きる現在」

2023年5月7日(復活後第5主日)
ヨハネによる福音書14章1節-14節

わたしたち人間は、自分が見ている世界が存在していると思っています。ここに世界があると分かるのはわたしです。わたしがいろいろなものを認識して、わたしが考えて、わたしがさまざまな行動をしています。ルネ・デカルトという哲学者は「我思う、ゆえに我あり」と言いました。わたしが思うという知的な活動が、わたしが存在していることを明らかにすると言ったのです。もちろん自分に対して明らかにするのです。これを独我論と批判する人もいます。その批判が語っているのは、わたしだけが単独で考えていることによって、わたしが確認されているというだけであって、そこには世界がないということです。しかし、デカルトが言った論点はそういうことではなかったのです。

世界に存在していると誰もが思っているさまざまなものが本当に存在しているのかどうかを疑って見ようとデカルトは始めました。大きなものから小さなものまで、存在を疑えば疑うほど不確かになって行きます。それはそのように見えているだけであって、存在してはいないのではないかと疑うことができる。わたしはそれが存在していると思い込んでいるだけではないだろうかというように、疑わしいものだと思えるものを捨て去った後に残るのは、そのように考えている「わたし」だけだということです。さまざまなものを捨て去って行くと、最後に残るのは「わたし」という極小さな存在。しかし、この「わたしが考えている」という事実だけは確かであろうというわけですね。これが、デカルトが「我思う、ゆえに我あり」と言い表したことでした。

ところが、「このように思っている我」はどうして存在しているのかと考えれば、誰か造った存在がいるわけです。それが神だとデカルトは語っています。「我」が確かであれば、「我」を造った神も確かであるということで、神はおられると論証したとデカルトは考えました。しかし、この論証はわたしを中心としています。逆に言えば、わたしがいなければ神はいないということにならないでしょうか。だから、独我論と批判されたのです。

確かに、神を知るのはわたしですね。神に祈るのもわたしです。神の言葉を聞くのもわたしです。わたしがいなければ、神にはみことばを語る相手がいません。みことばを語るのは聞く相手がいるからだと思えます。ところが、神は聞く相手がいなければ造り出すお方です。だから、わたしたち人間は造り出されました。そこから考えてみると、神さまが語る相手としてわたしたち人間を造り出されたわけで、わたしたち人間は神の言葉を聞くようにと造り出されたのです。つまり、神の言葉を聞いているわたしが中心なのではなくて、神が中心なのです。今日、イエスが語っておられること「わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」はこれと同じことなのです。

弟子たちがいるところはイエスがいるところだという言葉が語っているのは、イエスが中心だということなのです。弟子たちがイエスのいるところを探してたどり着くのではありません。弟子たちがたどり着けないところにイエスはおられるのですから、イエスが迎えるとおっしゃっているのです。イエスがおられて弟子たちがいるのです。反対ではありません。そうであれば、わたしたちには不安はありません。わたしはイエスがおられるところに行けるだろうかと心配する必要はないのです。あなたがたを迎えると、イエスがおっしゃっているのですから、心配しなくても良いのです。

ここでイエスが語っておられる言葉は、現在と未来です。「わたしがいる」は現在です。そして、「あなたがたがいることになる」は未来です。イエスの現在があって弟子たちの未来がある。イエスの現在が弟子たちの未来を作っている。イエスは未来を生きる現在を生きておられる。イエスの現在は、常に未来を造り出しながら生きている現在なのです。だから、イエスがわたしたちと共にいるということは、イエスが造り出している「未来を生きる現在」をわたしたちも共に生きているということなのです。では、この現在をわたしたちが生きるためには何が必要なのでしょうか。

「わたしは道であり、真理であり、命である」とおっしゃるイエスの現在を信じることだけです。信じて生きることだけです。わたしたちが歩む道はイエスです。わたしたちが隠すことなく生きる真理はイエスです。わたしたちが生きるいのちはイエスです。イエスを歩み、イエスだけを見つめて、イエスのいのちを生きる。これが、イエスが語っておられることです。イエスがわたしを歩ませる。イエスがわたしを隠れなく生きる者にしてくださる。わたしがイエスに従うのではありません。イエスがわたしを従わせる。わたしが隠れなく生きるのではありません。真理であるイエスがわたしに隠れなく生きる力を与えてくださるのです。わたしがイエスのいのちを生きるのではありません。イエスがわたしのいのちとなってくださるのです。イエスが主体となって世界も人間も生かされていく。イエスはそう語ってくださるのです。

わたしたち人間は自分がいなければ世界は動かないと思ってしまいます。いや、そう思いたいのです。しかし、わたしがいなくなれば神は代わりの存在を造り出してくださる。そうであれば、わたしでなくても良いのかと思って、落胆しますね。誰か他の人でも良いのであれば、わたしはいなくても良いのかと思ってしまいます。しかし、そうではありません。神はあなたを造ってくださった。神が創造したのはあなたなのです。そのあなたはいなくても良い存在ではありません。必要とされて生まれてきたのです。ただし、あなたでなければならないということではないのです。あなたがいなくなったとしても神は別の人を造り出して用いるのです。そのときには、その人が必要とされて生まれてきたのです。

わたしたちは、自分でなければならないということで自分の存在の重要性を確認してうれしくなります。自分は大事な存在なのだと言われれば、もっと大事な存在になりたいと思います。さらに上に登ろうとします。そして、最後には頂点に立ちたいと思うようになるのです。こうして、人間は自分を中心とした世界を生み出します。ところが聖書はそうは言わないのです。

「わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう」とイエスはおっしゃっています。つまり、かなえるのはイエスだとおっしゃっているのです。あなたがたの「願う力」がかなえるのではないとおっしゃっているのです。イエスが力をもってかなえるのですから、わたしが願うことが中心ではないのです。イエスがかなえてくださると信じるからこそ、わたしたちはイエスの名によって祈ります。この信仰が語っているのは、わたしの祈りの力ではありません。イエスの力を受け取るようにわたしを変えてくださるのが、イエスの名による祈りなのです。

わたしたちはいつも自分がいなければ何もできないようになることを求めています。わたしを確認したいからです。しかし、わたしを確認してもわたしが確かになるわけではありません。わたしを確認するのは、わたしが考え、行動することによってではないのです。ただ、イエスを信じることによってなのです。

神があなたを造ったのです。神の御用のために造ったのです。あなたは造られた存在です。神があなたが存在して欲しいと願ってくださったから、あなたは存在しているのです。自分で確認する必要はありません。イエスがあなたを知っているのです。神があなたを知っているのです。それだけが真理です。あなたの主として中心的に働いてくださるために、イエスは聖餐を設定してくださいました。この聖餐に与ることによって、わたしはわたしの主を受け入れるのです。イエスがわたしのために十字架を負ってくださったと信じる。イエスがわたしのために復活してくださったと信じる。聖餐はあなたの主をいただくこと。あなたのうちにイエスが主として働いてくださる恵みをいただくこと。わたしがいるところにあなたがたもいるようになる未来をいただくこと。感謝して聖餐に与りましょう。

祈ります。

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