「イエスを愛する者」

2023年5月14日(復活後第6主日)
ヨハネによる福音書14章15節-21節

今日の聖書には「愛する」という言葉がたびたび出てきます。日本語では「愛」という言葉は一つだけですが、ギリシア語では三つあります。アガペー、フィリア、エロスです。エロスは感情的な愛で、情愛のことです。フィリアは友愛と言われますが、仲間意識に基づいた愛です。これらは、人間同士の並列的な間柄での愛ですが、アガペーは基本的に神の愛を指します。今日の箇所ではイエスを愛することや父なる神を愛することが述べられていますように、縦の関係の中にある愛です。縦の関係ですから、並列的な関係とは違って、同族意識や感情に支配されることのない愛です。この愛は、神からわたしたち人間に対する愛の場合には、憐れみや誠実さとして、わたしたちを守る愛になります。反対に、わたしたちが神を愛し、イエスを愛する場合には、上にあるお方を愛するのですから、信頼や従順という事柄、敬愛になります。神に信頼して、イエスに従うということが人間がアガペーという愛を愛することです。だからこそ、最初にイエスが言うように、「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」と言われているのです。イエスを愛する者は、イエスに信頼して、イエスがおっしゃることを守り、イエスに従順に従うということです。

このような愛は人間的な感覚とは違います。この愛を持つ人、イエスを愛する人は自分の感情でイエスを愛するわけではないからです。自分と同類だということでイエスを愛するわけでもない。自分の仲間だということでイエスを愛するのでもない。ただ、イエスに信頼して、イエスに従う。それが、わたしたち人間が神を愛し、イエスを愛することだとイエスはおっしゃっているのです。だとすれば、この愛を持っている人は、神の愛を受け取っている人ということになります。神の愛を受け取っているので、神に信頼する。イエスの愛を受け取っているので、イエスに従う。それが、今日イエスがおっしゃっていることです。イエスが互いに愛し合いなさいとおっしゃった言葉もこの神の愛に基づいた愛をもって愛し合うことです。

今日の聖書の箇所を読むとき、わたしたちは「イエスを愛さなければ」と思うでしょう。しかし、神の愛を受け取っているならば、必然的に「イエスを愛する」のです。ということは、神の愛がわたしたちを促して、イエスを愛するようにするわけですね。神の愛が、わたしのうちでアガペーを働かせるということです。イエスを愛することが信頼と従順ですから、イエスの愛である十字架の愛を受け取っているならば、イエスに従うであろうということです。

先週、見ましたように、イエスは未来を生きる現在を生きていますから、イエスを愛する者は、現在イエスを愛することによって、未来において父に愛される者になるのです。それが「わたしを愛する人は、わたしの父に愛される」とイエスがおっしゃっている言葉です。「父に愛される」は未来形です。また、「わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す」と言われている言葉も未来形です。つまり、現在において「イエスを愛する者」は、未来において「父に愛される」者であり、「イエスに愛される」者なのです。今、イエスを愛するという出来事が、神によって与えられた愛であるならば、未来において起こる「愛される」出来事も神によって与えられる。つまり、現在を受動的な愛の中で生きているならば、未来においても受動的な愛の中で生きるであろうということですね。

この神とイエスとの愛の交換の中に入れられるために、聖霊が与えられるのです。それが「真理の霊」だとイエスはおっしゃっています。「真理」という言葉が、「隠れなきこと」という意味であることはたびたび申し上げてきました。「真理」という言葉が表しているのは、隠れてしまう原罪に陥ってしまったわたしたち人間がその原罪から解放されることを意味しています。隠れなくても良いようになるということです。隠れてしまうとき、わたしたちは自分を偽っています。隠れてしまうとき、わたしたちは自分を誤魔化しています。隠れてしまうとき、わたしたちは裸の罪深い自分自身を憎んでいます。自分を愛してはいないのです。こんなわたしでは誰にも愛されないと思い込んでいるのです。アダムとエヴァが神から隠れてしまったときも同じでした。わたしたちが隠れるようになったのは、自分が愛されるに値しないと思い込んでいるからです。わたしが愛されるに値するようになったら、誰からでも愛されるであろうと思ってもいるわけです。しかし、それは等価交換のようなものです。わたしの愛され度は、わたしの価値に見合っていると思っているわけです。愛されるだけの価値を持っているならば、わたしは愛されると思っているのです。ところが、神の愛は人間的に愛されないと思われていた人たちを愛する愛です。敵を愛する愛。不従順な者を愛する愛。悪人を愛する愛。罪人を愛する愛。義しくない人を愛する愛。それが神の愛です。だから、わたしたちは罪深くても愛されている。愚かでも愛されている。見た目で愛されるわけではありません。その魂が義しいから愛されるわけでもない。神は、それらのことを越えて、わたしたちを愛してくださる。そのような神の愛を受け取った人が愛されるであろう未来を生きるということです。

このような愛を受けるに値しないと思う人は、受け取らないかもしれません。もっと、愛されるような人になれば愛されるだろうと頑張るのです。そのような人は、永遠に神の愛を受け取ることができません。なぜなら、自分の価値が高まれば愛されると懸命になればなるほど、わたしたちは不安になっていきます。これでは足りないのではないかといつも不安になります。そして、確認したくなるのです。確認作業に時間を費やしてばかりいると、純粋に愛を受け取ることができなくなります。「愛している」と神がおっしゃっても、「いえいえ、まだまだでしょう」と、神に反論してしまうかもしれませんね。「わたしは信じませんよ」と言っているようなものです。「こんなわたしでも愛してくださるのですか」と単純に受け取る人は「神様、ありがとうございます」と応えるでしょう。そのように受け取る人は、神を愛するでしょう。そして、神に信頼するでしょう。いえ、神に信頼するからこそ、神の愛を素直に受け取り、神を敬い、愛するのです。

わたしたちが神を、そしてイエスを愛するということは敬うことです。神を憐れむのではありません。神を畏れ敬い、神に従う。これが、わたしたちが神を愛するということなのです。このような愛は、信仰と同じです。いえ、信仰こそが神を愛することであり、イエスを愛することなのです。だから、イエスを愛する者は、イエスを信じる者です。そして、このような人のそばに聖霊はおられるとイエスはおっしゃっています。

今日の日課の17節でこうおっしゃています。「あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」と。「あなたがたと共にいる」というのは現在形です。「これからも、あなたがたの内にいる」は未来形です。原文には「これからも」はありません。「あなたがたのうちにいるであろう」と未来形になっています。つまり、イエスを愛しているという現在は、聖霊がわたしのそばにいる証なのです。その聖霊は将来わたしのうちにいるであろうとイエスはおっしゃるのです。この将来が「聖霊降臨」の出来事です。わたしのうちに、聖霊が降るということです。その出来事は今イエスを愛しているあなたのそばで準備されているということです。「あのお方の愛を受け取りなさい」とわたしのそばで励まし、慰めている聖霊がいるのです。「裸のあなた、罪深いあなたを愛して、イエスは十字架を負ってくださったのだよ」と、わたしのそばで呼びかけてくださる聖霊がいるのです。この聖霊がおられることで、わたしたちはイエスを愛する者として生きることができる。聖霊がわたしのうちに住むとき、わたしはイエスを完全に愛する者として生きているでしょう。このお方の働きを受け取っているあなたは、イエスを愛する者として、裸の自分自身を喜び、生きて行くでしょう。聖霊はあなたのそばに今おられるのです。

祈ります。

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