「座している者の上に」

2023年5月21日(昇天主日)
ルカによる福音書24章44節-53節

本日は、イエス・キリストの昇天主日ですが、日本語で「昇天」と言うと、自分で昇ることのように思えますね。復活も同じように、イエス・キリストがご自分で復活したと、わたしたちは思っているのではないでしょうか。聖書の原文に従えば、どちらも受動態、受け身ですので、イエスご自身が自分で復活して、自分で天に昇ったわけではありません。新共同訳でも、「そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。」と受動態で訳されています。天に上げられたのですから、天におられる父なる神がイエスを天に上げたということです。

イエスは、そのご生涯の始まりから、神のお働きに信頼して生きておられました。昇天においても、ご復活においても、そして特に十字架においても、神のご意志がなることを信じて、すべてを引き受けて生きたのです。このお方が、わたしたちの主イエス・キリストです。ですから、このお方を主と仰ぐわたしたちキリスト者もまた、神の意志を信じて、すべてを引き受けて生きるように召されているのです。その生き方が、今日の聖書で弟子たちに命じられています。「高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」という言葉です。

「高い所からの力に覆われるまで」となっていますように、ここでも受動態です。「高い所からの力」があなたがたを覆うまでということですね。そうなったとき、あなたがたは「証人」となるであろうとイエスはおっしゃっているのです。また、「留まる」と訳されていますが、この原文は「座っている」という言葉です。座るという言葉は、王様になるというときに「玉座に座る」というように使われるものですが、ここでは「留まる」と訳されていますように、そこに居続けることを意味しています。マタイによる福音書では、イエスが宣教を始められたときに、イザヤ書の言葉が引用されてこう言われています。「死の陰の地に座している者たちに、光が上った」と。そこで「座っている」という言葉が示しているのは、何もできず座っているしかないような者たちの上に光が上ったということです。そこから考えてみれば、今日弟子たちに命じられていること、「高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」というイエスの言葉が語っているのは、自分の力で立つのではなく、神の力によって立たされるまで「座していなさい」ということですね。

「座っている」という言葉が意味していることは、もう一つあります。それは「学ぶ」ということです。「学ぶこと」はただ「座っている」のではなく、座って、学んだ事柄を良く考えて、自分の考えをまとめることでもあります。受け取った事柄を良く考えて、自分の中で整理するということですね。ただし、受け取っていなければ「学び」はできないのです。受け取らない人は、先に自分の考えがあって、それに合わないことは受け取らないので、学ぶことができません。自分の考えはあっても、他の人、先達たちが何を考え、残したのかを学ぶことです。そこから、自分なりの考えを修正し、新たな考えに至るとも言えます。そのようなことが「座っている」ことであるならば、イエスが弟子たちに勧めている「留まっていなさい」という言葉が示しているのは、「あなたがたは聖書を良く読み、学び、自分の考えを整理しなさい」ということでしょう。ここにも受動性が働いています。

座っているしかない状態に置かれている人が、先達たちが悩み、考えた事柄を良く学んで、自分の在り方を整理していくならば、自分自身がどのように生きていけば良いのかが見えてくるものです。それでこう言われているのです。「絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」と。「神をほめたたえていた」ということは、神さまのお働きが自分たちの上にも臨むことを信じて、神をほめたたえていたということです。その際に、イエスが教えてくださったこと、「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する」ということを良く学び、整理していたということでもあるでしょう。そのためにイエスは「聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた」のです。弟子たちは、心の目を開いていただいて、聖書を理解するようにされた。その心の目を持って、繰り返し聖書を読んでいたことでしょう。そして、神の言葉を理解し、神に信頼していれば、必ず良きことがなると信じ、神をほめたたえていたのです。

わたしたちは、人から何かためになることを聞くと、すぐに実行しようとします。自分のものになっていないのに、実行するので、すぐにダメになってしまうものです。自分のものになるためには、座していることが必要なのです。自分のものになるとき、そのときには「高い所からの力に覆われている」のです。この「力」と訳されている言葉は、ギリシア語でデュナミスという言葉です。この言葉は、日本語で「できる」と訳される言葉と同じなのですが、難しい言葉では「可能態」と訳されます。可能な状態という意味です。神さまの力によって可能な状態になるまで、「都に留まっていなさい」とイエスはおっしゃったのです。

王様が玉座に座るということも、神さまが可能な状態にしてくださったならば、座ることができるのです。そうではなく、自分で座りたいと座ったときには、上手く行かないことになるでしょう。その前に、座って良く学び、考え、整理する必要があるのです。それが祈るということです。同じように、イエスの命じることに従うということも、可能な状態になったときに「できる」ということですが、その前に「座っている」ことが必要なのです。

座っているだけで何もしないと言われても、なお座っている。そうできるためには、人の言葉に耳を傾けないことです。神の言葉に耳を傾けて、聖書を良く読み、自分を顧みて、物事を整理することです。そうして、神の言葉への信頼が自分のものとなったときには、立ち上がることができるでしょう。弟子たちも、イエスが心の目を開いて、聖書を理解するようにしてくださったのですが、理解した聖書を自分のものにする必要があったのです。理解しただけでは、自分のものにはなりません。自分自身の魂が目を覚まされて、立ち上がる力を得るために必要な神さまの力について、聖書は証ししているのです。それが「高い所からの力」と言われているデュナミスのことなのです。この力に「覆われる」ということは、原文では衣服を「着る」という言葉が使われています。つまり、神さまによって、神の力を衣服のように着せていただくまで、「座っていなさい」とイエスはおっしゃったのです。ここにも受動性があります。自分で着るのではないのです。神さまが着せてくださるのです。その衣服が「聖霊」なのです。聖霊降臨の際には、弟子たちは「聖霊」を神さまによって着せていただいたということです。「座している者」の上に、神さまの服が着せられること、それが聖霊降臨の出来事なのです。

しかし、着せられた服が気に入らないと、脱ぎ捨ててしまうことも起こるかもしれません。そして、自分の気に入る服を着る人もいるでしょう。そのときには、せっかく着せてくださった神さまの心を脱ぎ捨てているようなものです。わたしたちキリスト者は神さまが着せてくださったままに、感謝して受け取って、生きる存在なのです。それが神を讃美することであり、神を信じることなのです。

マルティン・ルターも「座している者」でした。反対者からの非難にさらされながらも、彼はひたすら聖書を読み、聖書の中でイエスがどうおっしゃっているか、神が何を語っておられるかを学びました。そのようにして、ルターは自らのなすべきことは聖書を正しく伝えることだと立ち上がって行きました。聖書が語っていることを曲げてはならないと立ち続けました。それが「我ここに立つ」というルターの言葉なのです。神の言葉の上に立つことで、わたしたちは神さまの力を着せていただけるのです。そのために、主イエスは聖餐を設定してくださいました。イエスのみことばに従って、キリストの体と血をいただく聖餐を通して、可能とする神さまの力を着せていただきましょう。神の可能とする力があなたを包んで、用いてくださるように。

祈ります。

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