「吹き込まれる息」

2023年5月28日(聖霊降臨日)
ヨハネによる福音書20章19節-23節

わたしたち人間が生きているという状態は、息をしている状態ですね。息をしている状態というのは、吸って、吐いている状態です。息を引き取ったという言い方がありますが、息を吸って、吐かなくなったということです。それがわたしたち人間の生物的な死を意味しています。吸うだけで、吐かなくなるとその息はどこに行くのかと考えたことはありませんか。吹き込んだお方のもとに還るのだとわたしは思いました。なぜなら、人間は最初に神によって息を吹き込まれた存在だからです。

創世記の2章7節にこのような記述があります。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」と。原文では「生ける魂となった」です。生ける魂とは、死んでいる状態から生きている状態に変化したということではありません。魂に生物的に「生きる」という状態が与えられたという意味です。この世で生きる存在となったという意味です。わたしたち人間は、ただの土の塵に過ぎないのですが、神が吹き込んだ息によって土の塵が生きる存在となったわけです。同時に魂も吹き込まれたことでしょう。ということは、命のない土の塵が命を得たわけで、命は神のもの、神の息だと言えます。ヘブライ人はそのように信じたのです。

この神の息は、この世で神の意志に従って生きるために吹き込まれたのですが、その命を自分勝手に生きるようになったのが原罪を犯したわたしたち人間です。この原罪から抜け出すことができない人間のために、神はご自身の意志を十戒という律法の形で与えてくださった。しかし、この律法さえも、人間は自分を誇るために使うようになってしまいました。さらには、律法を実行できると思い上がって、人間は律法を実行しながら罪を犯し続けるという状態に陥ってしまったのです。そのような罪の奴隷状態から救い出すために、神はイエス・キリストをお遣わしになり、十字架の死を従順に死ぬ救い主のお姿を通して、わたしたちに神に従うことを教えてくださいました。その十字架で死んだイエスが復活させられ、天に上げられることによって、神はイエス・キリストの生き方を肯定し、真実の人間としての生き方をわたしたちに示してくださった。その生き方に従う者たちが、自分の力ではなく、神の力によって従う者とされるために、復活したイエスは弟子たちに息を吹き込んだということです。

イエスが吹き込んだ息は、イエスご自身が生きた生そのものを吹き込んだということ。イエスの生は神に対する徹底的な従順だと、使徒パウロがフィリピの信徒への手紙2章8節以降で語っています。この「キリスト讃歌」と言われる言葉は、パウロの創作ではなく、イエスの昇天後およそ20年ほどの間に、信徒たちの間で受け継がれてきていた讃歌なのです。ということは、この「キリスト讃歌」はイエスの昇天から数年のうちに作られたことになります。イエスの十字架の死と復活の記憶が新しい頃に作られた讃歌ですから、当時の教会においてイエスに従うことが何を意味しているかを歌っていたと言えます。それはおそらく、聖霊降臨によって吹き込まれた息によって、新たに生きるようになったキリスト者たちの実存だったのでしょう。

実存という言葉は、もともとは「実際に存在する」という意味なのですが、実存主義哲学において新たな意味を与えられた言葉です。自分という存在を自覚的に問いながら存在する人間の主体的在り方を実存と呼ぶのですが、それはつまり自覚的に「わたしとは何か」ということを問いながら生きることなのです。キリスト讃歌を歌った人たちは、キリストのものとなったわたしはどのような存在なのかと問いながら生きたのです。キリストが神に従順であったことを通して、神に高く上げられたように、自分自身も神に従順に生きることが、新たな息を吹き込まれた存在の在り方だと考えたことでしょう。

イエスは、今日弟子たちに息を吹き込んだ後、こうおっしゃっています。「聖霊を受けなさい。」と。この言葉の原文は、「あなたがたは取れ、聖なる霊を」です。「取る」という言葉が使われていますが、「取る」というのはそこにあるから「取る」ということです。「受け取りなさい」という意味になります。受け取ること、受けること、取ること。これは「聖霊」を吹き込むイエスの心に素直に従うということです。そのとき、「吹き込まれる息」を受けることができるのです。

最初の人間アダムは、ただの土の塵でしたから、自分からは何もできなかったのです。神が吹き入れた息を「取る」こともできなかった。ただ受けるしかなかった。素直も何もない。ただ受けた。そして、彼は「生ける魂」として生じた。わたしたちも同じように、生まれるときには命をただ受けるだけ。それだけで「生ける魂」として生じたわたしなのです。そのようなわたしが神の息を、イエスの息を自分で「取る」ようにとイエスはおっしゃっています。それは、主体的に「取る」ということを意味しています。受け取るのですが、主体的に決断的に受け取ること。それが、イエスが弟子たちに求めたことでした。

このような「取る」ことは、どれを取るかを選択することではありません。与えられているものを「取る」ということですから、選択の余地はないのです。あるとすれば、「取る」か「取らない」かの選択です。しかし、そのような選択をするとすれば、吹き込むイエス、吹き込む神の意志を人間は受け取ることはないのです。なぜなら、「取る」にしても「取らない」にしても、わたしに選択権があると思い込んでいるからです。選択の余地なく、イエスは「取れ」とおっしゃっているのです。その場合には、「吹き込まれる息」をアーメンと「取る」だけなのです。このように受け取るとき、わたしたちは神の意志を理解する者とされていくのです。何もできなかった土塊とは違って、「生ける魂」として生じたわたしが、主体的に「取る」ことを求められている。それがキリスト者の実存、キリスト者であることなのです。このような在り方を能動的受動、あるいは受動的能動と言います。不思議に思われるかもしれませんが、受動でありながら能動的であり、能動でありながら受動的なのです。それが、キリスト者が自らの実存として生きる生き方だと言えます。これが、イエスが今日弟子たちに求めておられることなのです。そして、わたしたちイエスの言葉を聞いている者たちにも求めておられることなのです。

聖霊降臨の後、使徒言行録に記されているように、弟子たちは証する者となりました。その証は、弟子たちにとって挫折に思えたイエスの十字架の死が、弟子たちに新しい息を吹き込んでくださった神の出来事だという証言です。イエスの復活の証人となるということは、神の出来事は人間的に挫折に思えることを越えて、新しい現実を創造してくださると信じ、宣べ伝えるということです。わたしたちに起こってくる苦しみも悲しみも、また不都合なことも、その出来事の背後で神の意志が働いていて、最終的な良きことへと結実していくのです。その神の出来事に人間的に抗っても、神の意志だけがなっていく。それがイエスの復活の証人が語るべき事柄なのです。このような信仰を与えられているわたしたちは、弟子たちのように他者の迫害を受けたとしても、恐れる必要はありません。神の意志だけがなると信じていれば、あなたは揺さぶられることはないのです。悪に抵抗してはならないとパウロが言う通り、神の意志だけを信じていれば良いのです。わたしたちの現実を越えて支配しておられる神が、あなたの神です。現実を越えて復活し、天に上げられたイエス・キリストがあなたの主です。そのお方の息を吹き込まれたあなたのうちで、キリストの息が息づいている。キリストの息が聖霊なのです。あなたのうちに吹いている風がキリストの息、聖なる霊なのです。この聖霊があなたのうちで吹き続け、あなたのうちで生き続ける。「吹き込まれる息」を素直に受け取り、神に従う者として生きて行きましょう。そのとき、あなたは何者にも支配されることなく、ただキリスト者としての自由を生きるのです。

祈ります。

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