「型に入って型を破る」

2023年6月4日(三位一体主日)
マタイによる福音書28章16節-20節

「型に入って型を破る」という言葉を聞いたことがありますか。平山郁夫という日本画家がいますよね。彼が言った言葉です。「型に入る」というのは、型を身につけることを意味しています。型を身につけてこそ、その型を破って、新しい型を作ることができるということです。型に入らないで、何でも良いから型を作るということはないのです。わたしたちが自由にやろうとして、やってみても、結局同じようなもので終わってしまうのです。神学校で学んでいたとき、わたしの卒論指導をしてくださった石居正巳先生がこんなことをおっしゃったことがあります。「礼拝式文は堅苦しいと言って、あんな型にはまったものではなくもっと自由な礼拝をしようと言う人たちがいます。その人たちが、自由な礼拝としてさまざまにいろいろなことを取り入れたりしていくうちに、最終的にはほとんど変わらない形になっていくのですよ。自由と言いながら、結局同じような形を持ってしまうことになる。自由って何でしょうね。」と。この話を聞きながら、面白いなあと思いました。人間が考えることなど大して変わらないのだと思いました。そうであれば、まずは「型」を正しく理解したいと考えて、礼拝式文の勉強をして、型を整えることにしたのです。しかし、その礼拝の内実は何であろうかと考えて、「礼拝共同体としての教会」という卒論を書きました。この指導をしてくださったのが石居正巳先生なのです。わたしはこの先生を尊敬しています。先生は、型を正しく行うことは、型にはまることではなく、型に込められた信仰の内実を生きることだと教えてくださったのです。型に入ることの大切さを教えてくださいました。

しかし、この型に入った後、型を破ることができるのか。そのためには、型が身についていなければならないのです。平山郁夫は徹底して日本画の型を習得し、その型を破った人なのです。それは並大抵の努力ではできません。努力というものは、型を破るまでに至ることを言うのです。わたしの努力など努力ではないでしょう。ただ習得しているだけ。身につけようとしているだけ。まだまだ身についていない。そのように考えてみると、型に入ることの難しさを思います。今日の弟子たちもまたそうでした。

生前のイエスに指示されていた山に登り、弟子たちはイエスに会います。そのとき「ひれ伏した」と記されているのですが、続いて「しかし、疑う者もいた」と言われています。原文では「しかし、彼らは疑った」なのですが、中には疑う者もいたと訳されています。みんなが疑ったのではないと。どちらが本当なのかは分かりませんが、その「疑う者」がいても、イエスはおっしゃるのです。イエスがおっしゃることの中に入るようにと、イエスは弟子たちに語り掛けるのです。それは、イエスが「天地のすべての権威を与えられた」という言葉です。その権威は弟子たちが「出かけていってすべての民族を弟子にすること」を行わせる力のことです。「弟子にすること」とは、「洗礼を授けること」、「弟子たちに命じておいたことを守るように教えること」と言われています。つまり、イエスが権威を与えられたことによって、弟子たちはイエスの権威によって、弟子にすることが可能となるという意味です。だから、イエスが示したすべての民族を弟子にするという「型」の中に入れば良いということです。洗礼と教え、これが型です。先ほど、申しましたように、疑いが彼ら弟子たちのうちにあった。しかし、イエスは命じる。その命じられた型に入るようにとおっしゃる。これが、わたしたちが毎週礼拝を守っている意味なのです。

礼拝で行われているのは、「洗礼」と「教え」です。「聖餐」は「教え」に入ります。イエスが命じておいたことが「聖餐」ですからね。「洗礼」と「教え」が礼拝において守られている型なのです。この型に入ることによって、疑いは越えられるのです。型に入ることがなければ疑いを越えることはできないのです。先の「型に入って型を破る」ということから言えば、礼拝という型に入って、疑いという型を越えることができるとも言えます。疑いも一つの型を持っています。いや、自分が思い込んでいる「復活などない」とか「復活は幻想だろう」という型があるのです。誰もがその型からイエスの復活を考えてしまう。その型を越える、型を破るとすれば、幻想だと思うとしてもイエスが命じられた型に入ってみる。そうして、イエスの型によって、わたしたち人間が抱いていた古い型が越えられる。イエスは今もわたしの前に生きて働いておられる。イエスは今もわたしに語り掛けてくださっている。わたしと共に生きておられる。そう信じることができる。そのために、礼拝というイエスが命じてくださった型があるのです。

この型に入ることによって、わたしたちが縛られていた型を破ることができる。それが信仰を起こされることでもあるのです。結局、新しい型は古い型を破って行くのです。囚われを破って行くのです。自由だと思っていた不自由を破って行くのです。そして、真実の自由を生きる者にしてくださる。それが礼拝というイエスの型。洗礼と教えという礼拝の型。イエスが命じてくださった型。この型に入るのは、疑う者であっても可能なのです。入って見れば良いからです。しかし、入って見ようと思わなければ入れないでしょう。そこが難しいところです。

礼拝という型には、イエスの権威が宿っているとしても、型にはまりたくないと思う人は入らない。入って見ようと思わない限り入らない。そのように思う人は、どうして思うのでしょうか。他の人が思わないのに、どうしてその人だけ思うのでしょうか。それが選びというものです。弟子たちは、イエスが復活して目の前に生きておられることを見ても、疑っている。その前に、一応イエスが指示しておいた山に皆が登るのです。どうして登るのでしょうか。命じられていたから登るとしても、イエスはすでに十字架で死んだのです。それなのに生前の約束通り、登ってみる。そのような気持ちにされて、弟子たちは山に登った。そこには不思議な力が働いているのです。それが、イエスがおっしゃる権威です。

新共同訳では「権能」と訳されていますが、「権威」が原文です。権威というものは、力なのですが、権威という言葉が意味しているのは、支配する力のことです。つまり、イエスが父なる神から与えられた「権威」は、天地のすべてを支配する力を与えられたということです。ですから、疑う者がいても支配しているのです。疑う者も従わざるを得ないようになるということです。しかし、この「権威」というのは「権威」の下にある人にしか効き目がありません。権威の支配から外れている人には効き目がないのです。そうであれば、疑う者であっても権威の下に置かれている人は従わざるを得ないようにされるということですね。それが選びなのです。

わたしたちは、何故か知らないけれど、イエスに従う者とされたのです。自分からイエスに従ったというよりも、イエスに従おうという思いを起こされて従ったのです。わたしたちは、イエスの権威の下にあったということです。イエスの権威の下に、わたし自身から入ったのではなく、神さまによって置かれていた。それで、わたしたちはイエスの言葉を聞き、教えを受け、聖餐に与る礼拝に集められているのです。このように生きる者とされたのは、わたしが偉かったからではありません。わたしがよく勉強して、聖書を学び、知識を蓄えたから、礼拝に与っているのではありません。むしろ、礼拝に与る中で、教えられ、洗礼を受けることになったのです。最初から信じていたわけではないのです。従わせられる中で、信じる者にされたのです。そのような意味では「型に入れられた」と言えます。そして、わたしが持っていた「型」を破って、生きるようにされた。自由を与えられた。それがわたしたち一人ひとりであり、キリストのみことばの力、権威の力なのです。今日もまた、この権威の力をわたしたちはいただきます。キリストの体と血としていただきます。わたしのうちでキリストが力を奮ってくださり、わたしをキリストに従う者として育ててくださいますように。

祈ります。

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