「旅して学べ」

2023年6月11日(聖霊降臨後第2主日)
マタイによる福音書9章9節-13節、18節-26節

みなさんは旅をしたことがありますか。旅というものは仕事ではありません。目的地があったとしても、行き着くまでの道のり、帰ってくるまでの道のりの中で遭遇する出来事を楽しむことという解釈もあります。しかし、イエスがおっしゃっている旅とは、むしろ地上の目的地を持たないことではないかと思います。目的地は天の御国であって、地上には目的地はないのです。そうすると、旅することは、さまざまなものに出会って、何かを受け取り、何かを与えながら、歩いて行くことだと言えます。そう考えてみると、わたしは本当に旅をしたことがあるのだろうかと思ってしまいます。わたしたちが旅行と言っているものは、旅ではないのです。わたしたちの旅行は休日の二泊三日というようなものであって、何ヶ月もかけるとしてもやはり同じです。わたしたちには、日常の仕事があり、その仕事の合間に休むだけだからです。仕事を一年も休めば、もう来なくて良いよと言われてしまうかもしれません。仕事の取引先も、他の業者を探してしまうでしょう。そのようなリスクを抱えてしまうような旅をわたしたちはしないのです。

今日、イエスが弟子たちに勧めているのは、旅することです。旅の中で学ぶことです。「行って学びなさい」とイエスがおっしゃっている言葉を原文で読めば、「旅して、学びなさい」となります。「行く」と訳されていますが、この言葉は「うろつき回る」ことを表していますので、うろうろする旅を表す言葉です。イエスは旅するお方でした。イエスは、その旅の中で、ある場所に着くまでの間、出会う出来事や人々に関わっておられた。マタイに「わたしに従いなさい」とおっしゃってから、「憐れみ」について語った後で、イエスの許に、ある指導者がやって来ます。娘が死んだけれど、手を置いてくだされば生き返るでしょうとイエスに懇願します。その娘のところへ行く途中で、長血の女に出会い、彼女の癒やしと信仰を確認し、再び娘のところへとイエスは向かいます。ある場所に向かいながらも、その途中で出会う人や出来事に対して向き合い、留まるというように、イエスは旅をするのです。しかし、娘の癒やしがイエスの目的地だとは言えません。そこからまた旅立つからです。

このような生き方がイエスの生き方です。イエスは旅の途上で起こること、出会うことはすべて神が起こし、神が出会わせてくださったこととすべてを引き受けて生きておられた。旅の中で、イエスご自身もさまざまな人たちに出会った。人間の罪深さと哀れさを見ておられた。さらに、信仰を与えられた人間の強さも見ておられた。旅の中で、イエスは人間の本質を見ながら、出会う人たちに誠実に関わってくださった。これが今日の日課において、わたしたちが知るイエスの生き方です。同じように、イエスは弟子たちにも「旅して学べ」と勧めるのです。

旅することは学ぶことです。自分の生活圏、日常から抜け出して、見知らぬ地に向かうこと。生活するために自分の周りに揃えたものを捨てて、家を捨てて、その日その日に起こることに、神の意志を認め、受け入れて生きること。それが、イエスが「旅して学べ」とおっしゃることです。何を学ぶのかと言えば、今日の個所では「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か」を学べとおっしゃっています。この原文では「わたしは憐れみを意志している。犠牲をではない」となっています。「求める」とはなっていません。この原文から考えれば、「憐れみ」は神の意志であるということと、「犠牲」は神の意志ではなく人間の意志で神に献げるものという区別があることになります。わたしたちに「憐れみ」を与えなさいとイエスがおっしゃっていると思う方もおられるかもしれませんが、「憐れみ」は神の事柄、「犠牲」は人間の事柄ということを学べということでしょう。神が「憐れみ」を注ぐ出来事を見るために、旅をして、学ぶということです。旅の中で出会ったもの、出会った人の上に注がれる神の「憐れみ」を知ること、また自分にも注がれていることを知ることによって神に従って生きることを学ぶということです。

イエスは、旅における出会いが神によって起こされてくることを楽しんでおられるようです。うろつきながら、神が出会わせてくださる人や出来事を包んでいる神の意志を見て回るイエス。わたしならば、自分が目的地に行くことを邪魔する存在として、避けてしまうかもしれない。無視してしまうかもしれない。しかし、イエスにとっては神によって起こることすべてが旅の醍醐味なのです。それが、イエスが弟子たちに「旅して学べ」とおっしゃったことだと言えます。

このような生き方に倣って生きることは、わたしたち普通に仕事をしている人間には難しいことでしょう。では、どうすれば良いのでしょうか。わたしたちの日常を、イエスのような旅する心で生きることでしょう。夫婦の出来事も旅のひとコマ。こどもとのやり取りも旅のひとこま。わたしの一日一日を旅として生きる。そうすると、出会うこと、起こることの中に、神が起こしてくださった意志があることが次第に見えてくるでしょう。その中で、神の意志である「憐れみ」が人や出来事に注がれることを見るかもしれません。さらに、神が起こしたことがわたしに語り掛けている問いを受け取るかもしれません。そのように生きる人は、キリストと一緒に歩く旅を生きていると言えるでしょう。

神の意志である「憐れみ」はわたしたちの地上の日常の中にあります。わたしたちは地上にあって、御国への旅を続けている存在として、自分の計画を捨てて、神が起こし給うことに従ってみる。それが日常を旅することになる。わたしたちは、日常の中で神の出来事に出会っているのです。もちろん、人間的な出来事にも出会っているのですが、それは人間が起こしたことと自分のうちにある同じ罪を認めながら、その罪に対して自分で対抗するのではなく、神が起こしてくださる出来事がどのように起こるのかを期待しながら歩いて行く。そのとき、わたしたちは日常を神の国への旅として生きることにもなるでしょう。信仰者の日常は神の国への旅です。神の出来事に出会う旅です。キリスト者として召された者たちは、キリストに従って日常を生きるのです。キリストが導いておられる目的地、神の国に向かいながら、神の国の中をキリストと共に旅して、学ぶのです。

ところで、「学び」というものは、どのようにして起こるのでしょうか。まず、自分が知らないことがあると認めるときに学びが起こります。自分ができないことがあると認めるときに学びが起こるのです。学ぼうとする姿勢は、起こったことがわたしに何を問いかけているかを考えて、取り組むときにわたしたちのうちに起こってくる姿勢です。問いは自分で考えるとき、問いとして生きていきます。考えることなく、誰かが教えてくれるマニュアルに従って処理すれば良いと思うとき、問いは生きることなく、学ぶこともないのです。たとえ失敗だと思えても、わたしの中で妨げているものは何かと問いながら考えていくとき、学びが生まれるのです。

学びの姿勢がない人は、何事にも意識して取り組むことがありません。とりあえず目の前のことを上手くやり過ごすことだけを考えているので、行って戻ってくるだけの人です。旅の途上で、問いに出会い、悩み、考え、立ち止まり、祈り、取り組むこと、それがキリスト者として召された者の生き方だとイエスは教えてくださっています。それはイエスご自身の人々との関わりに現れているものです。

イエスは、わたしたちが日常を神からの問いとして生きることを願っておられます。神の国に行き着くまで、学びの連続である旅を楽しんでごらんとイエスは招いてくださっています。神の国へと至る道のりを自分自身の信仰を問われている旅として生きていく。それがキリスト者です。あなたの日常は神からの問いに満ちているのです。信仰を学ぶ機会を日々与えられているのです。その問いに取り組みながら、「ああ、そうだったのか」と神の「憐れみ」が分かるときが来る。あなたも周りの人たちも神の憐れみを注がれている存在なのです。

祈ります。

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