「賜物を与え合う群れ」

2023年6月18日(聖霊降臨後第3主日)
マタイによる福音書9章35節-10章8節

「ただより高いものはない」と言われますね。「ただ」と言いながら、いろいろ求めてくる人がいるからでしょうね。イエスもそんなことをおっしゃっているのでしょうか。今日の日課で、10章8節の言葉は原文ではこのようになっています。「無償の賜物を、あなたがたは受け取った。無償の賜物をあなたがたは与えよ」。「無償の賜物」を「ただで」と訳しているわけです。この「無償の賜物」というのは、ギリシア語でドーレアと言います。これは物ではありません。不思議な力と言ってしまうと、能力のように思ってしまうでしょうが、能力でもないのです。ここでは「病人を癒すこと」や「死者を生き返らせる」ことや「皮膚病の人を清くする」こと、そして「悪霊を追い出す」ことも出てきます。10章1節で言われているように「汚れた霊に対する権能」のことなのですが、この「権能」とは「権威」のことです。以前にもお話ししましたように「権威」は神の力ですが、その「権威」を付与された存在の中で神の力が働くということです。それで、病気を癒したり、悪霊を追い出したり、死者を復活させたりという不思議な働きが行われるわけです。この「権威」が「無償の賜物」と呼ばれているものです。

使徒パウロがコリントの信徒への手紙一の12章でさまざまな賜物について語っているところがありますが、やはり不思議な力のことです。皆が同じ力をいただいているわけではなくて、力の現れ方は違うのです。病気を癒す「賜物」を与えられている人もいれば、悪霊を追い出す「賜物」を与えられている人もいます。異言を語る「賜物」を与えられている人と、それを解釈する「賜物」を与えられている人もいます。それらの賜物は異なっていますので、競い合うことができないのです。一人ひとりに違う「賜物」が与えられているのです。

今日の福音書では、これらの違う「賜物」を一人ひとりが「受け取った」と言われています。受け取ったその「賜物」を与えるように言われています。「賜物」を用いるのであれば分かりますが、与えると言われると、どう思いますか。賜物は神が与えるものであって、わたしたちが賜物を与え合うことなどできないだろうと思いますよね。聖書では、賜物というものは、本来的には「聖霊」のことだと考えられています。「聖霊」は受け取ることはできても、受け取った人が他の人に与えることはできません。しかし、このマタイによる福音書では与えることができるように語られています。どうしてでしょうか。

「権威」にしても「聖霊」にしても、それを受け取った人のうちで不思議な力が働くようにされると言えますが、その力を与えられた者が他の人にその力を与えることはできないのです。もちろん、牧師の按手式では「聖霊を受けよ」と先輩牧師たちが牧師に任命される人に手を置いて命じますが、先輩牧師が与えるわけではないのです。その人が受け取る状態になることが命じられているだけです。自分が与えることができるように振る舞う人は少々あやしいですね。牧師の按手の際にも、それまでの長い期間の研鑽と祈りがあって行われるものですから、先輩牧師が頭に手を置けば聖霊が与えられるとは言えないのです。受けるべき人が受けるということです。わたしたちが賜物を誇ることが起これば、傲慢にもなるでしょう。使徒パウロもそのような状態に陥ったときに、トゲが与えられたと語っています。賜物はどのように用いれば良いのでしょうか。ここで言われているように、あくまで無償の賜物として受け取ることから始まるのです。

賜物というのは、「ただで受けた」と言われていますように無償で与えられたものです。これとは別に、カリスマというものもパウロは語っています。カリスマというのは、ここで出てくる病気を癒したり、悪霊を追い出す力とも同じです。カリスマも無償で与えられています。カリスマは「恵みの賜物」と訳され、ここで使われているドーレアは「無償の賜物」と訳されます。この違いはあまり分かりません。そして、ここでイエスが与えたと言われている「権威」も同じような不思議な力のことを指していますので、賜物と言われているのは当然です。その人が生まれたときから自分の能力として持っているものではなくて、あくまで後から与えられたものだということです。後から与えられたものということは、その人に能力があるということではないのです。むしろ、その人の能力を超えた力が働くことを「賜物」、「権威」と呼んでいるのです。これを受け取ることはできても、与えることはできません。ところがイエスは与えよとおっしゃっています。ということは、不思議な力の現れとしての癒やしや悪霊の追い出しを無償で受け取るようにさせなさいということでしょう。

賜物とは、わたしたちの能力ではないし、わたしが努力して獲得したものでもないのです。もし、わたしが努力して獲得して、不思議な力を得たとすれば、それはわたしの能力の範囲内のものになります。なぜなら、努力して能力を獲得することができるということは、開発されていなかった力が現れたということですからね。ところが、努力しても獲得することができない力は、わたしの能力を超えた力です。教えることもできないような力ですから、あくまで聖霊の働きによるということなのです。そうすると、この賜物や権威は、信仰と同じことになります。信仰も人に与えることはできません。ここで言われている「賜物を与えよ」というイエスの言葉が意味しているのは、賜物によって不思議な力を受け取ったのだから、その賜物が働くことを他者が受け取るように与えよということでしょう。

わたしたち信仰者のうちには不思議な力が働いています。信じるということも不思議な力の働きです。一般的には信じることが人間の信じる能力のように思われていますし、他人が人を洗脳して信じさせることが可能なように思われてもいます。しかし、真実の信仰は、ルターがいうように、わたしたちのうちにおける神の働きですから、他人に押しつけることはできませんし、わたしのうちに働いているということをわたしが自覚しているわけでもないのです。わたしたちが信仰を与えられたときには、何故か知らないけれど、信じる者にされているのです。

「イエスは信じられる」とわたしが判断して信じたわけではないのです。十二弟子たちも、突然呼ばれてついていっただけです。そこには、人間の判断が入る余地はありません。わたしたちの信仰はわたしのものではありませんから、自分で「今信じている」と確認することなどできません。また、「今、信仰が増えた」などとも言えないものです。与えられた無償の賜物とは、神がその人の中で働いておられる出来事なのです。

だからこそ、お金を取って、癒してあげましょうとは言えませんし、何か報酬をもらうこともできません。わたしが働いているわけではないからです。そのような賜物をあなたがたは受け取っているのです。しかし、それが特別に病気を癒す力であるか、悪霊を追い出す力であるかは分かりません。それらとは別の力があなたのうちに働いているかもしれません。ここに記されているだけではなく、あなただけに与えられている力が働いているのです。それが何であるかは分かりませんが、あなたがキリストを信じるがゆえに行おうとすることのうちに働いているのが賜物なのです。それだけで良いのです。

わたしにはこのような賜物が働いていると自慢する必要などないのです。あなたのうちで働いてくださる神に促されて、他者のために仕えて行く。そのような思惑のない働き、それがイエスがおっしゃる「賜物を受け取る」ことであり、「賜物を与える」ことでしょう。賜物そのものが受け取ることと与えることの中で行き交いながら働いているのです。賜物は、自分を捨てて、イエスに従うときにあなたのうちで働いている神の働き、イエスの働きなのです。それを確認する必要はありません。イエスの体と血を「アーメン」と受けるように、なすべきことを受け取るならば、その賜物が働くのです。あなたのうちにキリストが働いてくださる恵みの賜物を受け取り、キリストの働きに促されて、出て行きましょう。与えられた賜物があなたのうちで働きますように。

祈ります。

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